Tデザイン社 西蔵電気筆録

沖縄県は八重山郡 石垣島に開設したデザインオフィスから発信する業務日誌?!

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裸の王様。笑われるべきは実は王様ではなく、王様は裸であると笑っている家来や民衆のほうかも知れない【前編】

私たちが生きる社会は本当に現実のものなんだろうか?

って何か哲学的なことを言ってやろうと思っているのではなくて、ボクは唯単純に『現実』と皆が呼ぶものを疑っているのです。何を疑っているかと言うと、ボクはその現実なるものが何か実体を伴ったものでもなく、普遍の価値あるものでもなく、実は結構しょーもないファンタジーではないかと疑っているのです。

例えば【死】についての現実。
私たちは社会的にも心情的にも『死』を怖れます。少しでも死なないように心掛けたり、念じたり、誰か神様や教祖様のお力添えにより死を遠ざけてくれるようお願いしたりもします。ま、もう末期ガンであることが発覚しちゃって死を遠ざけるのが無理ならせめて安らかに死なせてくれと懇願したりもします。

私はそれがおかしいなどと言ってるのではありません。死を遠ざけようと願ったり、死を穢れと感じたりするのは至極当然だと思います。

はい。ここでおそらくはほとんどの人が『そうそう。当然でしょ、そんなの。誰だって死にたくないんだから』ぐらいの事を思いつつ、私が提示した「当然」という文言に頷いてくれた事と思いますが、死を避けるのが当然という現実がここにあります。

そう。現代に生きる誰もが死を避け、死を怖れ、死にたくないと願っている筈です。ま、中には死を怖れぬ極少数の変わり者はいるでしょうが、おおむね私たちは死を忌避します。

しかしながらよくよく思い出してみましょうか。
我らはホモサピエンスなる高度な霊長類へと進化を遂げ、その人としての黎明期がいつであるという学術的命題に未だ答は出ていないのでおおよそのところに線を引き、ま、仮に300万年前にアダムとイブが誕生していたとすれば我々はそこから1億2千万世代以上を経てきたわけで、その総数は何千億人か、もしかしたら何兆人にもなる筈です。そして3,000,000年の長きを渡ってきた人類の総数である何千億か何兆かの人たちは皆、誰一人の例外なく死に至っているのです。


おかしくはないですか?
私たちは死は遠ざけるべきものであり、怖れの対象であり、忌避すべきものであり、死を克服することを望むのは当然であるぐらいに思っている現実がすっかり定着してるわけですが、今日に至る1億2千万代のご先祖様がことごとく死んできたように我々もまた100%確実に死にます。それなのに何を怖れることがあるのでしょうか?

びびろうと、泣こうと、わめこうと、例外なく誰もが死ぬのに何故びびったり、泣いたり、わめいたり、取り乱したりするのでしょうか?どうしてそれが現実という事になっているのでしょうか?いつからそれが定着したのでしょうか。どうして我々は少しでも長生きしたいと願うのでしょうか。考古学などによれば黎明期の人類はとても短命だったようだし、たかだか200年前でも平均寿命は50歳前後だったわけで、それらの事実を踏まえれば我々は死を怖れるからこそ寿命をどんどん延ばしてきたのかも知れませんが、伸ばそうと引っ張ろうとどうやっても我々は死にます。

確かに死はしばしば深い悲しみを伴います。ある日 突如として大好きな人が目の前からいなくなるのは誰にとっても大きな痛手として心に刻みこまれることでしょうし、そのような悲しみや哀れみを避けようとするのは仕方のないことだと思います。

しかしそれでも万人は必ずや死にます。病気か事故か老衰かはともかく誰もが例外なく死亡します。乞食であろうと王様であろうと政治家であろうとワーキングプアであろうと卑劣な野郎であろうと正義の味方であろうと死は等しく訪れます。

ならば私は死を忌避するのではなく万人が死生観を持つべきではないかと思ったりもしますが、それは本稿のテーマと関係ないのでまた別の機会としますが、ともかくも我々はびびる必要の無いものをびびり、怖がる筋合いではないものを一生懸命に怖がっているのではないか。私には現実がそういうものに見えるのです。

ま、しかし死についての考察もあくまで喩えの一つにすぎません。私が本稿で語ろうとしているのは現実とは何かと言うことであり、天邪鬼たる私が天邪鬼を続けるのは多くの人が現実として疑って掛かろうとしないものを疑い続ければこその天邪鬼であるわけです。

と、いうことで少々長くなってきたので続きはまた次回。
| 10:23 | 立派な大人のための童話 | comments(0) | trackbacks(0) |
2012ハツユメ
 半裸のクロノグラファーたちがその長い肢体を官能的にくねらせたり伸ばしたりしながら屹立する往来にはやたらと人がひしめいているのに、細く狭い路地を一本曲がれば塵芥をひっくり返したかの如き都会の風景がそこにあって、初夢とは言え俺はまた随分とベタな設定を考案したものだなぁと自戒的に少々照れるも、やはりそれが現実感と既視感のボリュームの為せる業と俺は納得せしむるのであるが、そうこうしていうちに路地の向こう側に現れたる三名の人影が壁の如く立ちはだかるから元来が気が強いほうではない俺は手のひらが汗ばむのを覚えつつ今来た路地を戻るしかなかった。

そう。俺は監視対象なのだ。
否、監視対象なのだと言い切れる確証を得ているわけではないのだが、日頃の懸念の数々を振り返るに監視されていると推察するのが適宜であり妥当なのである。パーソナルフォンを使えば雑音が混ざり、パーソナルフォンの回線が本来行うべきではない経由を裏付けるようにしばしば勝手に切断するし、自宅の付近には見慣れぬ設備屋だの営業マンだの福祉相談員だのが昼夜を問わずうろついている。加えて、ツイッターを使えば俺のアカウントは、ツイートのひとつもしていない奇妙なアカウント群からフォローを受け、フェイスブックからはライン生産されたお面の如き顔写真と如何にも嘘くさいプロフィールをアカウントに貼った見知らぬ人たちから毎日のように友達申請が入って辟易するばかりなのである。

ま、確かに得体が知れないと言うだけで監視側の連中ではないかと疑う筋合いもないのかも知れないが、同じく信用する義理もない。俺は見えるものしか触れるものしか信用しない。だからこそ警戒をされるし監視も受けるのだろう。不穏分子として。

しかしながら不穏分子と見るのは向こうの勝手であり、こちらとしては至極真っ当なことを述べ、真っ当なことを考え、真っ当なる日常を送っているに過ぎないのであるから不穏分子のレッテルを貼られて気分良いわけがない。

では気分が良くなる為にはどうしたものであろうかと俺は考えた。
来る日も来る日も考えた。しかしながら下手の考え休むに似たりであるからいつまで考えていても仕方がない。仕方ないから俺はあまり考えずに行こうと決め、ここはひとつレッテルを貼る人たちの望む者になるのがよかろうと居直り、それで俺は確信犯であるということになったのだけれど、本当は気の弱いただの正直者に過ぎないのは言うまでもない。監視されるのも警戒されるのもお門違いも甚だしいのである。

とは言え、自由なつもりの俺もまた囚われていることに相違なくば解放を求めるのは筋っちゃー筋であるから、俺はひとまず抑圧の象徴であるところのクロノグラファーの解放を実現すべく立ち上がった!

否、立ち上がったのではなくて立ち上がろうとしているというのが今年の初夢であり、解放を実現するためのパワーも武器も暴力装置も権力も何一つ持たない俺は街角に立つクロノグラファーたちに話し掛けるという戦法に出たのだ。ありていに言えば『説得』という行為であるわけだが、現行の法律では説得どころかクロノグラファーたちに声をかけるのさえ罰金100万円以下 懲役3年以下に処せられる重大なる違法行為であるから説得を試みるなんて一介の無辜の市民に過ぎぬ俺には命がけにも等しい行為に相違なく、路地を抜け出した俺は適宜選んだクロノグラファーに近づき、辺りを見回し誰もこちらに注目していないのを数回確認しつつ何気なさを装ってクロノに話し掛けた。

クロノグラファーとは俺の初夢に出てきた時間を体現し具現する者たちであり、史上もっとも優美で官能的な時計人間の通称である。クロノグラファーこそが子供たちの憧憬の最大の対象だった。

俺は意を決して一人のクロノに話し掛けようと口を開けたその刹那だった。背後から「おいこら!貴様!」と怒声が発せられたから俺は振り返りもせずに駆け出したところで今朝目が醒めたという次第。

変な初夢だなぁ。
こんな変なの見るのは俺が変ってことなのかなぁ。
多分…そうなんだろうなぁ。



ということで皆様。本年もひとつよろしくお願い致します。

| 13:50 | Nothing! | comments(0) | trackbacks(0) |
そこに野良猫がいるようにオバケも又そこにいる

十数年前。旅の足を止めて石垣島に居つくようになった時にボクは島の人たちとの会話の中で気に留まった事がひとつあって、それはオバケに対する彼らの認知認識についての在りようでした。

例えば当時のボクなどは無神論者を自認自覚し、文部省的教育を全身に浴びて少年期青年期を過ごした甲斐あってか見事に科学的で合理的認識を是としていたぐらいだから「オバケ?はぁ…いや、別に、あの、なんちゅーか、居るとか居ないとかさえ考慮に値しないんじゃないでしょうかね。ま、オバケが居ると思いたい人は思えばいいんじゃないの?ただの一度たりとも俺の目に見えないものをやっぱ居るとは言えないわけでさ」などと主張して胸のひとつも張っていたのだけれど、周りにいる島の人たちはそんな俺の言葉なんぞはまったく耳に届かないらしく至極フツーな有態で「いやだ、怖い!」だの「ダメダメ、あそこは出るから近づいたら絶対ダメよ〜。連れて来たらマズイからよ」とか「え?それやっぱ女の幽霊だった?うわ。やっぱそうなんだ。髪の毛長いやつだったでしょ。ね」みたいにオバケについて多くの島の人が語ってくれるし、島の人たちのオバケについて認識はおそらく西暦2012年、平成24年を明日に控えた今もそう変わっていない。

つまるところ、ボクにとって無駄話のネタにさえしないものが、彼らの間では話の大前提として『オバケとは実在するものである』『そこに野良猫やカラスがいるようにオバケもまた普通にそこに居るのである』となっている事を知るに及び、ボクは決して小さくはない驚きを覚えたわけです。

ここで誤解しないで欲しいのですが、ボクは島の人たちの頭ン中が科学的でもないし合理的でもないとか、現代的教育をおろそかにしてきたゆえであると訳知り顔で指摘してやろうと言うのではありません。

島の人たちにして現在の壮年以上の方々はともかくそれ以下の年齢の人たちは、ボクと同様に文部省(現・文部科学省)的教育の洗礼を受け、合理的で科学的であるモノの子弟であり、復帰後 国家によって引かれたレールの上を走る事を受け入れてきた筈であるから、仮に全国学力テストの点数に若干の差があろうともそんなものは大同小異。国家や体制という視点から俯瞰するに誤差程度のものでしょう。

つまりは、同じ教育を受け、同じテレビ番組を見て、似たり寄ったりの食生活をし、本土生活者と様式に差のない家電や車や家や財産を欲している人たちとの間でオバケに対する認識に斯くも差異が生じるのは何故なのか。北海道や東京や大阪や他府県にいる友人知人のその件についての認識を思い返してみても大方のところではボクと認識にそう大差はないでしょう。ま、中には霊感があるとか高いとか感じるとかいう方も若干名いるものの、例えばその場に不特定の十名からの人がいて、十名全員がオバケの存在を前提にして会話をしたりはしませんが、石垣島界隈に生まれ育った人の多くはやっぱりオバケの実在はデフォルトであり前提であり初期設定値であるわけです。

では、そのオバケとはなんなのか。

合理的で科学的思考を善しとし、文部科学省的教育を甘受してきた(いや。ホントは抗ってばかりだった気がしますがw)無神論者のボクなどにはまったく感知できないものであるのに石垣島の人たちにはその存在性を疑うべくもなく、論ずる意味も評する余地もなきオバケとは一体なんであるのか。

果たして彼らには見え、ボクには見えないものとはなんであるのか。おそらくそれはオバケだけに限った話ではなく、他にも多くのものが両者の間では見え隠れしている筈です。
けだしそれらはこうも言い換えられます。

彼らには触れてボクには触れないもの。
彼らには聞こえてボクには聞こえぬもの。
彼らには笑い飛ばせるのにボクには気に病んで仕方ないもの。
彼らには悲しくて仕方がないのにボクにはなんら感じ得ないもの。
彼らはずうっと大切にしてるのにボクはとうの昔に捨て去ったしまったもの。

命題だけずらずらと並べたもののそれらの解答欄に入るべき言葉にボクは実はあまり興味がありません。たくさんの方が解答欄に答を書き込もうとこの地を訪れたり、この地に移り住んだり、また他所を土地を旅したりしているようですが、暗記一辺倒の入試批判じゃないけどボクにとって答はどうでもよくて、それよりも気になって仕方がないのはそれらの差異が何故に生じてしまったのかという事なのです。

十数年前のボクに疑問を投げ掛け、これまでぼんやりとしかわからなかったものが最近になってようやくわかってきました。そして案の定と言うかなんと言うかわかってみればさしたる事でもなく、それは認識方法の差だったのです。ありていに言えばボクと島の人たちと両者のあいだに生じた差異は尺度の差、ものさしの差であったと、つまるところそういう事になります。

既に書いたようにボクのものさしは十数年もの長きにも渡った学校教育が主たる製造工場であり、そのものさしの上っ面には合理性追求科学的ものさしと印刷されています。一方、島の人たちは同様の学校教育は受けているものの彼らが持っているものさしは実はそこで作られたのではなくて、至極密度の高い対人関係性によって生成されたものであり、多くの場合それは文部科学省的教育を受ける以前の幼少期に作られているわけで、合理的思考だの科学的見地だの小賢しき原材料の混入率は最小限に留められています。

じゃあだからと言って石垣島的ものさしが実は優れていて、ボクの持っている合理と科学がごっちゃになった硬直したようなものさしが駄目なものと結論付けたいのかというとそうではなくて、例えばタイランドの山奥に行けばまた別のものさしで生きている人たちが居て、インド洋で魚を釣って暮らしている人たちにも又違うものさしが在って、更に言えば魚を釣っている人たちの間でも使っているものさしには少しずつ変異とか差異とかがあるという事に他ならないわけです。



果たしてボクらは他の人のものさしを否定したり批判したりすることに汲々となってはいまいか。科学的で合理的なる認識が絶対だと思い込んではいまいか。死に物狂いで努力すれば、人より何倍も頑張れば、そのあとにハッピーエンドが待っていると信じて止まずにはいまいか。

所詮はそれもたった一つの認識の扉に過ぎぬのに



みなさんよいお年をお迎えください。


| 20:09 | Nothing! | comments(0) | trackbacks(0) |
さて今夜は後冨底周二の三線ライブショーなんかどうでしょう
さてさて今宵は周二師匠の三線ライブショーの日がやってまいりました。本年最後の周ちゃんライブとなりますゆえ今夜は忘年会という趣向になっております。足掛け二年となります周ちゃんライブは現場に足を運んでくださる皆様は勿論のことust中継を見てくださるネットユーザーの皆様にも支えられて続けてまいりました。当ライブのスタッフの一人である私めといたしましても皆々様に深く感謝しております。

皆様、本当にありがとうございます。
来年も変わらぬお引き立てのほど何卒よろしくお願い致します。

で、何ゆえ後冨底周二なのか。
実のところこれはボクを始めとする周ちゃんライブスタッフに時々投げ掛けられる疑問であります。今どき民謡なんかやってどうする?とか、もっと若くて才能のある奴がいくらでもいるんだからそういう人たちをサポートしたほうがいいんじゃないの?とか、要するに八重山民謡の唄者である周ちゃんは時流じゃないでしょ、とのご意見をいただくわけですが、別にボクらは周二師匠を売り出して一儲けしてやろうとか思ってやってるわけでは勿論なくて、周二師匠と一緒にやるのが面白いからやってるだけでして、それ以上の他意もなければたくましき商魂をひた隠しにしているわけでもなく、他の才能ある若者を否定しているわけでもなく、八重山民謡界の異端児と呼ぶに相応しい後冨底周二その人の若干めちゃくちゃな人物像を面白がり、そのような師を真摯にサポートすることによって、我らもまた『メインストリームになんか誰が簡単になびくかよ。俺たちの周二師匠は最高なんだぜ』みたいな姿勢を打ち出してカタルシスを得ているのでございます。

ま、持ちつ持たれつってところでしょうかw

いや、そんな文言は相応しくないですね。なんと言っても我らが師匠でございますから持ちつ持たれつなんておこがましい。師匠、生意気言ってすいませんでした!!

って事で後冨底周二師匠がどんな方なのかを知っていただくためにリンクを貼っておきますのでご参考にどうぞ。
【王道の話】

なんつってる間に周ちゃんライブの時間になってしまいました。いそいで現場に行ってまいります!ust.はこちらからどうぞ!
【あむりたの庭TV】
| 19:57 | ブラボー! | comments(0) | trackbacks(0) |
何はともあれギネス記録達成には祝辞を送りたい
 前々々々回ぐらいに批判記事を書いた石垣島BBQ大会が先日 予定通りに執り行われ、記録挑戦の現場にてすったもんだの二つ三つあったものの、催しの目的であったギネス記録を無事達成したようなので本稿は祝辞で記事を埋めてみようかなと思う次第。

おめでとうございます石垣島!
って言うよりは、おめでとう石垣市長。おめでとう石垣牛の生産者の皆さん。ご苦労様でした石垣市商工会や市職員の皆さん!ってところが実際的なわけで、この催しへの批判記事を書いたボクなどは完全に門外漢だし、先日も某所で市長に出くわした際に挨拶をしたところほぼスルーされる有様であるから気分的には祝辞を述べる気になどならないのだけど、そこは、ま、社会人として抑制をぐっと利かせてみようと思います。

石垣島BBQ大会当日、そんな経緯ゆえにボクはBBQ会場へ行く筈もなくて、所用にて出向いた先々で旧知の方々とお会いしたわけだけど、当然のごとく挨拶に続く話はBBQネタ。彼らにしてBBQ大会へ行かないくらいだから大方のところのBBQ大会批判組だったりして、彼ら彼女らがそれぞれに語る批判理由は大別すると二通りでした。

いわく。金(税金)の使い方がおかしい。変。
石垣牛の宣伝・観光誘致のための恰好の材料などと言うが開催理由として全然釈然としない。費用対効果の試算がちゃんと出来ているのか?開催二日前になって四倍にのばせる串の長さ競争になんか意味があるのか?と言う具合の理論派が第一組であり、続く第二組は311の震災と原発事故を憂う感傷派とも言うべき人たちです。

いわく。ついこの前、何万人もの隣人が非業の死を遂げ、何十万人の人たちが食うや飲まずの生活を強いられ、その悲惨な状況を考えるにBBQ大会だの、一万人で石垣牛を食らい尽くすだの、骨投げ競争(このイベントは大会前に批判に晒されて骨がレプリカに変更となる)だのと諸手を挙げて心の底から楽しめるわけがない。開催はせめて来年(311から一年の喪が明けて)にして欲しかったというもので、これらの意見は女性に多かった印象があります。

ま、言っちゃえば何をどう企画しようと催そうと批判は必ずついて回ります。それは確かです。しかし今般のBBQ大会の企画運営にたずさわった方々がそのような言い草で批判と正面から向き合わないのであれば、その意義や宣伝効果や経済効果において今回以上のイベントは出来ないと知るべきでしょうね。と言うかボクはそう断言しておきます。

素朴な疑問ですが、ギネス記録なんて今どき誰が注目するのでしょうか?

ま、もし仮に一定数の注目があるとして、そんなものは記録の更新と共によそに移っていくだけのこと。ましてや今イベントはほとんど地元しか集まらなかったわけで、一部マスメディアの取材や問い合わせがあったにせよ、その開催費用と開催のために掛けた手間と時間を考えれば大きな宣伝効果があったとは言い切れないのではないでしょうか。

終わってしまったイベントをくさすほど野暮じゃございません。でもね、反省と総括は必須でしょう。反省のないところに進歩もないし、批判のないところには変化も成長もありません。ま、もし大会主催側の皆様が『今大会は大成功だった!すごいよ俺ら!大したもんだろ!俺たち最高!!!』みたいに思ってるのならボクは何も申し上げません。どうぞ自画自賛のぬるま湯にゆっくりと浸かっていただき、できればそのまま湯船から上がらないでいただければ、なんて思う次第。

否、妙な嫌味は無用でしょう。BBQ大会を成功に導いた皆さんはきっと大いなる批判と反省にその身を晒し、来期へと続く同イベントを更に良いものに、更に意義深いものに、もっと多くの人が楽しめるよう既に準備は始まっているのであろうとボクは確信しております。


今般の大BBQ大会の成功、本当におめでとうございます。
中山市長、今度お会いした際はこんな面倒くさいことをいう男ではございますが、一瞥くれてやるだけでなく どうぞ握手のひとつもしてやってくださいまし。よろしくお願い致します。

BBQ大会前に批判記事を書いた手前、これをもって一応のけじめとさせていただきます。
石垣市職員の皆様と石垣市商工会の皆様の更なるご活躍を期待して。




| 21:03 | 石垣島 | comments(2) | trackbacks(0) |
今年もフラメンコショーの季節がやってまいりました。
毎年 手掛けているフラメンコショーのポスターが今年も出来上がりました。昨年はミュッシェ風のチョット濃いめなデザインでしたが、今回は全体をセピアトーンでまとめることで落ち着いた雰囲気を漂わせたぐらいにしてアダルト層へのアピールを図ることに。

と言うのも価格をみてもらうとわかるように石垣島で行われるイベントとしては若干高め(あくまで石垣島界隈の相場として)の設定になっていることもあって、レッスン生やそのお友だちなんかを除くと客席にはいわゆる若い衆はほとんどいなくて、妙齢のご婦人方が七割から八割を占めるのが過去二年のデーターではっきりと出ており、ポスター等のビジュアル的にもアダルトな方向を打ち出して行こうじゃないかと企画会議で決まったのでございます。

しかし単に落ち着いたビジュアルを持ってくるなんてフラメンコじゃない(なんつったって情熱ですから!)。やっぱ表現としてパッションは必須。で、そういうものをどう打ち出そうかと考えつつ写真300枚ぐらい撮って、最初に作ったラフでは白黒のモノトーン基調に、アラビアンな紋様(銀色)を紙面片側に通し、刺し色に金赤の薔薇のタトゥー調イラストを配したメリハリのあるものを作ってみたらところ、レイナ先生いわく「なんかこれじゃアーティスティックに寄り過ぎていてフラメンコとは違う。ジャズシンガーならありだけどフラメンコは違うの。でもこの写真は気に入ったわ。これ使うことにする」とのご意見に沿うこととなり、彼女の希望もありセピアトーンでの調整に。

バイラオーラ(フランメンコダンサー)のレイナさんはエジプトで少女時代を過ごした帰国子女でもあり、イスラム圏への思いも深く、今年のポスターもアラビアンテイストが縛りのひとつでした。ま、ポスター右下のアラビア語はベタっちゃベタですが、ベタぐらいで仕上げるのがトラディショナルな世界観だったりするわけで、普段どちらかと言うとベタを避けて通るくせのあるボクとしては今一度『情熱のフラメンコ』に立ち返りつつ、天の邪鬼な方向に寄らないよう我が脳みそに適度な制動をかけてつつ出来上がったのが冒頭のポスター絵。

ま、しかしなんだかんだ理屈を並べても今作はモデルさんであるレイナ先生に拠るとこだったりしますがね。ボクが日本のフラメンコダンサー全員を知ってるわけじゃ勿論ないけれど、単体でここまで絵になるフラメンコダンサーはそう多くはいないでしょう。ましてや石垣島のフラメンコ業界はレイナ先生の独壇場。ヨイショで言ってるんじゃなくて本当にそう。彼女がカメラの前できりっと立ってくれたらあとは大した仕事はないって感じです。

ってことで今年のレイナのフラメンコショーは12月4日(日曜日)。場所はANAインターコンチネンタル石垣島リゾート。開演午後8時でございます。これまた毎回好評のスペイン料理フルコースの豪華ディナーショー。お友達同士の忘年会としてご利用する方も毎年いらっしゃいます。わたくしはと言えば毎回カメラマンとしてバタバタとステージの周りを動き回っておりますので会場でお見かけの際は一声かけてやってくださいまし。よろしくどうぞ。




| 20:00 | お客様 | comments(1) | trackbacks(0) |
砂川船長いわく『デザインの神様と商売の神様は兄妹』

デザインの神様と商売の神様は兄妹であるとは弊社のキャラクターであるところの砂川船長の発言なのですが、その真意のほどが巷にイマイチ伝わっていないようなので彼に同句を吹き込んだ張本人であるところの作者のボクの立場から本日は少々補足をいれておきましょうね。

この場合、どっちが兄で どっちが妹なのかは横に置いておくけれど、兄妹ってくらいだから極々近しい縁石関係を暗喩してるわけでして、ギリシャ神話を紐解けばわかるように神様ってのは単独だとどうしてか独善的だったり傲慢だったりして、あらぬ暴走をするのもしばしばです。

商売の神様が独善に走り、傲慢をかまし、暴走し始めるとどうなるかは世間の皆様はよくご存知でしょうからボクがここで説明するまでもないでしょうが、ま、一応書き連ねておくにそれは産地偽装だったり底上げ容器だったり抱き合わせ販売だったり、記憶に新しいところでは加熱調理が必要な肉を生で食べさせってのも同種の行為と言えるでしょう。ま、ありていに言ってしまえば市場や顧客のニーズを逆手に取った醜悪な行為に走るわけです。

一方、デザインの神様が独善傲慢暴走するとどうなるかと言うと、それは過剰包装だったり行き過ぎた写真加工だったり誇大広告だったりして、いわゆる看板に偽りありと言う行為に往々にして出るわけで、もっと往々には各種政治団体や国家がプロパガンダとして確信犯的に独善傲慢暴走誘導させることは皆さんもよくご存知のことと思います。

って…あれ?そうでもない?
もしかしてプロパガンダって、社会主義国家だの独裁国家だのばかりがやるものと頑なに信奉してるうぶな方もなかにはいるのかしら?

断っておくけど、そんなわけある筈ないからね。日本も米国も欧州各国も中国も韓国も北朝鮮もイランもパキスタンもスーダンも南アフリカもプロパガンダなんて得意中の得意なんだからね。民主主義国家が行うそれを『正しき導き』であるかの如く信じたり流布したりするのはどうかと思うよ。

って事で話を戻すに、何ゆえ暴走するのかと言えば、商売の神様が暴走するのは利潤追求が主たる要因でしょうし、デザインの神様が暴走する場合は得てして商品そのものに力がなく、そこんところを補おうとして力技に頼るより他なかったりします。

そのように兄も妹もそもそもが人格者でない場合、それぞれが相反して勝手をやりだすと碌なことにならないのは火を見るよりも明らかであり、誰しもそこんところはご理解いただける事と思いますが、じゃ、結論を得るためにわざと逆の例証をとりあげてみましょうか。巷でとても美しく仲の良い兄妹として認知されてる例証です。例えばご当地石垣島の大大大大ヒット商品であるところの◎◎島ラー油。もしこれにしょうもないロゴとパッケージが施されていたら?

上の写真が売れまくっている本物の写真で、
下の絵が検証用に今ちゃちゃっと作ってみた偽◎◎島ラー油のパッケージ。


ホンモノの◎◎島ラー油が売れたのは一義的に商品そのものに大きな力があるのは今更ボクが主張するまでもなく周知の事でしょうし、ヒットする要因としてこの商品の開発者であり販売者であるご夫妻の人柄や奮闘なくしてあり得ないわけですが、中身(味も容量も)が同じものであっても下のパッケージだったら今日のような大ヒットを遂げたりしたでしょうか?

100%と申しません。でも99%それはなかったとボクは断言します。◎◎島ラー油が大ヒットを遂げたのはパッケージデザインと商品の持ってる力とが高いレベルで融合したからこそです。って、ま、そんな事は消費者の多くが気がついてることだと思います。

しかしなぜか巷で商いをする人の多くはそこに目をつぶろうとします。ボクにはそれが不思議でしょうがないのですが、どのように目をつぶるかと言うと、商品ばかりに目を向け パッケージデザインには自分のひと月分のお小遣いほどの金も出さない出したくない「そこに経費は掛けられないからよ」みたいな台詞を至極当然の事のように吐いたり、その逆に商品そのものはほとんど思いつきで作ったり、単なる真似だったりするコンセプトにもパワーにも著しく欠けるB級品だったりC級品だったりするんだけど、それをどうにか上の下、もしくは中の上ぐらいに見せるべく上等なパッケージデザインを求めるという若干破廉恥な行為が平然と行われるに至っているわけです。

ま、どちらもありと言ってしまえばありかも知れません。千円でも経費を減らしてモノが売れるならばそれに越したことはないし、商いを行う理由も規模もレベルも皆それぞれ違うわけですから、どーでもいい商品を少し売って小遣い程度の金額を稼げればそれでOKって人がいるのは然るべきでしょう。

だがそれでもデザインの神様と商売の神様が兄妹であることに変わりはありません。どちらか一方が頑張りまくってみても大した事にはならないし、兄妹が幸せな家族となることもありません。ベタなこと言っちゃいますが、それぞれ補い合ったり支え合ったり励まし合ったり連携したりそれがファインプレーにつながったりして、つまるところそれが本稿のテーマなのです。
| 13:44 | Q&A | comments(0) | trackbacks(0) |
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