思惑で出来た世界
2012.05.15 Tuesday
世界は思惑でできている。
It's a wonderful world と微笑み歌うのも、自ら命を絶つのがふさわしい忌々しき場所だと感じるのも、手垢も足あともない自然の様を目の当たりにして『荘厳』の二文字を当て嵌めるのもこの世界の何もかもが私たちの思惑であり、そんな思惑の無いところにワンダフルも自殺名所も荘厳もあろう筈がありません。
例えば石ころがひとつ地面に転がっています。
これは玉(宝石)でしょうか?それともただの石でしょうか?
拾う人の気持ちひとつでそれは玉にもなれば石にもなるのは言うまでもありません。
もっと言えばこの石ころに人生の重さを見て取る人がいるかも知れないし、逆に人生の儚さを感じる人がいるかも知れない。その石ころが何かの思い出と重なり合う形や色をしていれば因縁めいた意味を読もうとするかも知れないし、情緒不安定のケースならば石ころを見て発狂する人だって中にはいるかも知れません。
なぜ石ころひとつ様々な反応が有り得るのでしょうか。
この世界には実は何もない。ボクはそう考えています。
この世界の上には花や雲や水や岩や山や崖が在って、ついでに豪奢なマンションやホテルが建ち並んでいて、真っ赤なスポーツカーや音速で飛ぶ機体が何千機あろうともそれらは全ては我々の思惑の産物。目に見えているからそこに絶対的存在として在るわけではなく、ボクらがその目に映ったものに名前をつけ、意味を与え、高級だとか下品だとか有益だとか無益だとかの認識を皆で共有し、それが確かに在るものとして確認し合いつつ我々は日々の生活を送っている。ボクはそう考えています。
例えば山は火山活動や地殻変動に伴う造山活動で大地が盛り上がったものに過ぎなくて、ボクらはそれに『山』という名前を付け、そこに勝手気ままに神を住まわせて有り難がってみたり、用済みの酸素ボンベや缶ジュースや菓子袋を投げ捨て好き勝手に汚してみたり。しかし間違っても山自身が「私は山である」と主張しているわけではないし、航空機が「我こそは最新鋭の機体であるぞ」と胸を張るわけでもなく、崖が「あなたの死に場所に相応しきこの崖へようこそ」と挨拶をするわけでもない。主張しているのも胸を張っているのも挨拶をするのも我々自身に他ならないのです。我々の思惑があればこそ山は山として存在し、飛行機は飛行機たり得ているし、絶望した人たちは高い崖へと向かいます。
じゃ、逆はどうでしょう?
使命とか愛とか希望とか。
そんなものはこの世界に存在しないと嘯く人たちがいます。だってそんなものは目に見えないじゃないか。簡単に裏切られるじゃないか。作るのは大変だが壊れるのは実に容易ではないかと言う次第。
使命とか愛とか希望とか。それらは確かに危うい性質があって、例えば神の信徒を名乗る人たちなんかの布教活動や経済活動を支える最重要アイテムに神代の頃から指名されているのは誰もがご存知でしょうし、なればこそボクもそんなものを後生大事に抱え込むのは不要であり無用であると少年期のいつからか考えていました。
ついでに言うと義理とか人情とか友情とか品格とか、目に見えるカタチのないものを我々は近代からこっちマクロ経済の整備拡張こそが最優先事項であるとの号令の名のもとにそれらを次々と否定してきたし、否定とまでは言わずとも随分と疎かにもしてきました。そのようなものは不要であり、我々の生活基盤を支えるマクロな経済活動にとって利益をなんらもたらさない足枷の如きものであるとしてきました。
そんな思惑こそが今のこの世界を作っています。
40年前。小学生だったボクはそんな世界がひどく居心地の悪いものに思えてひどく忌み嫌ったし、拒絶もしたし、自分の親も、学校の先生も、近所のおじさんもおばさんも、テレビドラマなんかでしたり顔で説教をたれるタレントだか電波芸者だかわからない連中も、誰も彼もが信用なりませんでした。ものごころが付いてまもなく、少年期のボクは世界や社会に対して最初にそのような認識を抱いたわけです。
それから中学生になったボクは『偽善者』の付箋を密かに作り、それを彼らの額のまんなかに貼り付けて分類し、ファイリングして彼らこそが敵であると肝に銘じるようになりました。しかしボクは自分が特別に敏感だとか繊細だとかそんな意識は微塵もなかったので同級生や友の多くが自分と同じようなことを考え、周囲の大人たちの立ち居振る舞いのイビツさを観察しつつ、彼らが作るこの世界の胡散臭さを自分と同じように嗅ぎ取っているものと信じて疑っていなかったのですが、さにあらん、我が思いを折々に開陳するに至り、判明したのは同級生や友の多くは既に立派なオトナだと言うことでした。
立派なオトナ。もとい、小さなオトナ。
表現の差はあれど友や同級生は私をやさしく諌めてくれもしました。
「うんうん。オマエの言いたいことはわかるよ。親も教師も親戚も皆が『キミのための思って言っているのだ。アナタのことが心配なのだ』なんて言うが、そんなのは嘘だ。どいつもこいつも自分のことしか考えていない。自分の子供や自分の教え子に恥をかかされたくだけさ。立派な学校に行き、立派な会社に入り、立派な社会人になるのがアナタの倖せだなんて口々に言うが、俺がやりたい事を言葉巧みに否定してみせ、俺が好きなものを少しづつ取り上げていく。奪い取っていく。だから後に残るものは彼らが俺にやらせたいことだけさ。そう。立派なオトナってやつ。いい学校行って、いい会社入って、給料たくさんもらって、嫁さんもらって、家建てて、老後に困らないだけの蓄えを持つのがベスト!これに勝る選択肢なし!ってな具合のやつ。笑っちゃうよね。でもさ、思うんだけど、そういう世の中なんだから仕方ないのかなぁって。いくら俺が音楽やりたくても絵を描きたくても野球やりたくても、それじゃきっと食えないもん。おそらく無理だろう。夢じゃ食えない社会なんだから仕方がないんだよ。な。だからオマエもいつまでも逆らってばっかりいないでさ、もう少し勉強したほうがいいぞ。な。わかるだろ」
いやいや、違うよ。ボクは夢の話をしてるんじゃなくて、社会の仕組みの話をしてるんだよ。オトナたちの思惑の話をしてるんだよ。そんなものに黙って従うだけでいいのかって言ってるんだよ。音楽や絵や野球の話じゃないよ。などと友の言い草をあわてて否定してみせるも、誰もが優しく笑い返してくれたぐらいにして、社会や世界の話なんぞはまともに取り合ってもくれない。いつまでも子供みたいなこと言ってないでオトナになろうや!な、西蔵!なんて具合なのです。
当時の言葉でそういうのを『青臭い」と称し、さしづめ今なら『中ニ病」などと言い表して昔も今も嘲笑の対象だ。
で、なにゆえ嘲笑されるかと言えば友の言葉通りに゛そういう世の中”だからです。この世界を作っている思惑から外れるからです。思惑外のものを否定せずに放置しておいて間違って一定の力を持ったりされるとたいへん具合が悪いし始末が悪い。独り二人でいるうちに潰しておかないと、もしかするとそれは寄り集まっていつか反体制勢力となるやも知れないし、そうなればこの世界を作っている思惑を否定され立場が逆転してしまうかも知れない。立場逆転とまでは容易にならずとも世界の内側に不協和音が生じ、握っている筈の主導権を脅かされる。それはおそらくとても不愉快なことであり、不気味なことであり、恐ろしげな想像にさえ繋がりかねない事態…
しかしながら安心して欲しい。当時も今もボクは世界をひっくり返してやろうとか革命を起こしてやりたいとか考えいるわけでも言ってるわけでもなくて、喩えて言うならば少数派の自治権を認めよと主張しているに過ぎないのですよ。
とは言え、ボクは子供の頃も今も周囲の人たちからしばしば言われます。俺らみんながこうしているのだからお前ひとりが勝手なことをするのは許さん。断じて認めん。全体の利益を考えよ。何が独自だ。なにが個性だ。そんなものは精々アクセサリーにしか過ぎないのだよ。違う色のネックレスや指輪をつけることは許されても、お前ひとりが裸で往来を歩くのを認めたりしたら社会は成り立たなくなるんだ。だから勝手なことはさせん!
ま、それも一理あるでしょう。確かに皆が毛皮を身につけることに意義や意味を見出し、毛皮の品評をして気分の良さを感じているところに、『いやいや。やっぱ全裸が気持ちEよ!』なんてことを言い出す奴がいたら排除したくなる気持ちもわからないではありませんが、でもそれは付和雷同がなせる業なのです。付和雷同は簡単に全体主義を生成します。「右向け右」を行動と思考の規範とする人たちを生み出します。だから独りで顔を勝手に横に向けている奴がどうしても許せない。
前述の友や同級生にしたところで、独りで外れたことを主張するボクを優しく諌めてくれるのは友だからであり、仲の良い同級生だからであり、もし彼らにとってもボクが一面識もない人間ならばコメント欄が彼らの罵詈雑言で埋め尽くされるのは想像に難くありません。曰く。周りの人たちにかかるであろう迷惑を考えないワガママで勝手な奴。意味不明なことをほざくアホ。こいつ、もしかして頭おかしい?
ま、そういう言葉こそが全体主義に準じている証しだったりするわけです。
世界はそんな思惑で出来ていて、世界という名の家屋は柱も天井も床も風呂場も庭も全部そんな思惑に満ち満ちている。でも逆に言えば思惑で作らているからこそボクはボクの自由な思惑を生み出し続けるしかないし、思惑には思惑をぶつけて対抗するより他に手がなくて、でもボクは大多数の思惑に勝てる筈とか潰せるとか安直に見積っているのではなく、ボクの思惑をなんとか彼我の思惑の隙間にねじ込み、戦国大名の例えで言うなら三千石ぐらいの小さな領地を将軍様より賜りまして、「狭いながらも楽しい我が家、だよね」なんてことを嘯きつつ楽しく一生を終えたいだけなのですが、この全体主義の国においてそれが容易いことだとも思ってはいません。
なんとなれば、ボクに三千石の所領を担保してくれる将軍様も王様もこの世界にはおらず、もし仮にボクが三千石の領地を手に入れたところでそこでは領内に生活する者が絶えずして外界からの攻撃と口撃にさらされ、領地でつくった作物を奪おうとつけ狙うチビた夜盗が徘徊する場所になるであろうことは容易に想像できます。
しかし、今ボクには確信があります。
二十代のある時期、ボクは、もしかしたら頭がおかしいのではないかと思ったことがありました。どうしても、周囲の人たちがもつ価値観を気持ちよく、フツーに共有できなかったからであり、それはボクのほうに問題があるのではないかと相当真剣に考えたし悩みました。
そうした思いを抱いたまま29歳の時に大陸の旅に出たボクはそこで我が意を得る世界を目の当たりにし、一時期でも自分の頭を疑ったことを後悔しました。なんなれば、ボクが自分の足で歩いた大陸の世界には価値観も生活習慣も宗教も政治的立場も考え方も何もかもがバラバラの人たちが蠢く現実があったからです。
世界は一様ではありませんでした。
見事にてんでばらばら。大陸に住む人の数だけ世界があると言っても言い過ぎではないかも知れません。なのに島国に住むボクらはどうしてか同じ価値観や生活習慣を持たねば不幸になるぐらいの強迫観念に絶えずして駆られ、世界は絶対に変容しないものと信じ込み、新しき価値観を拒絶し、それどころか生活習慣ひとつ変えるのさえ困難極まりない事であると頑迷な態度を決め込んでいる。
もはやボクにはそのような態度を支持することが出来ないし、そんな仲間に入るのさえ拒絶したいくらい。でも拒絶はしません。拒絶はしないけど何もない世界に自分の思惑を作り上げるのは止めません。多くの人の思惑には同調できないけれど、それを否定もしない。何もない世界に何を思い描こうと自由なんですから。だからボクの自由も誰にも侵されたくない。ボクはボクの思い描く素晴らしい世界を作りたいだけで、誰かを攻撃したり殺したり襲ったりしたいわけではない。
だって今のこの世界はどう考えたっておかしいもの。
単純に変だし、歪でしょ。
毎年何万人もの人たちが自殺する世界。就職に失敗したとは言っては自殺し、事業で失敗しては自殺し、長時間労働を強いられては自殺し、病気になっては自殺する。自殺ばかりではなく、休みなく一生懸命働いても収入は生活保護を受けるより少なかったり、ロクでもない親に虐待され続ける子供が大勢いたり、テレビ番組でとりあげる食品をみんなでこぞって買い漁ったり、それも数日ですぐ飽きてまた別のものに飛びついたり、電波芸者が集まってわいわいやるだけのバラエティ番組をみんなで口を半開きにして見入ったり、アホだと誰もが了解してる筈の芸人がトップ当選したり、民族差別がデフォルトになっていたり、原発がないと世界が滅びるぐらいの戯言をくそまじめな顔で語る専門家という人たちがいてみたり、まったくもって狂った世界。
世界がそれほど狂っているんだったらボクが少々狂っていようと関係ないw
って言うか、たいした問題じゃない。
大した問題じゃないどころかボクの思い描く世界のほうが皆の思惑で作られたこの世界よりもよほど幸せで楽しい世界だと確信している。
別にボクには何も成せないかもしれない。でも成せなくても為すことはできる。ボクは自分のことを過大視もしてないし、教祖になりたいわけでも王様になりたいわけでもなく、ましてや石垣市の市議や首長になりたいわけでもないw 為すことの結果に特段の期待もしてないし、その予想みたいなものもしていない。
やりたいことをやるだけ。ただそれだけ。
こうしたら楽しくなるのに。こうやったらもっと面白いことになるのに。
それ以外に生きる動機が見当たらない。でも最高の動機だと思っている。
ボクが生きる世界はボクの思惑でできている。それはボクの思惑でしか成立しないし完結しない。別に完結しなくとももよいのだが、なんであれ、ロクでもない連中の思惑に苦しめられるのは、もうごめんだね。

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