T-Design 西蔵的電気筆録

沖縄県は八重山郡 石垣島に開設したデザインオフィスから発信する業務日誌改め、
ドイツはミュンヘン市に居を移して発信する在独邦人日記
art.by.saizou@gmail.com

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続・日独は本当に相似形か?

昨日紹介した結論に至るまでの試行経路もさることながら、日独の間にはもっと分かり易い「小さからぬ差異」がいつくかあるので、この項ではそれに言及してみます。

 

私が個人的に最大の壁を感じるのは、やはりなんと言っても両国の食文化で、食に対する捉え方とか考え方の違いは相当に大きいと言わざるを得ません。日本人として「食い道楽」という概念に特段の違和感を覚えたり、理解不能だったり、拒絶感を覚えたりする人はおそらく皆無に近いと思うのだが、ここドイツに食い道楽に該当する言葉(Feinschmecker/schlemmer)はあっても、食い道楽を実践している人はかなりの少数派でしかなく、社会通念的には「食い道楽などは無駄なお金の使い方以外の何ものでもないわ!」と切って捨てて見せても多くのドイツ人たちから特段の違和感を持たれたりはしない筈です。「うん、まぁ、そうね。食い道楽とか別に要らないかな。お金ある奴は勝手にやればいいが、俺は絶対やらないから」ぐらいのもので。

 

※食い道楽/グルメ/美食家、これは厳密に言えばそれぞれ意味するところが違う、微妙に異なる概念だと私は捉えているのですが、なるべく話を簡潔にするために敢えて並列に捉えておきます。

 

食い道楽を究めようとする者は収入にもほど近い金額を食のために使う者も日本では珍しくありません。例えば私がそうでした(あえて過去形にしておきます)。高校生の頃からバイトを断続的にやっていたので普段から月に数万円の収入があり、夏休みや冬休みなどは一ヶ月間をまるまるバイトに充てるので十数万円の収入があったのですが、私はそのうちの7〜8割を「食」のために使っていました。ここは食い道楽がテーマなので、当然のことながら高校生の私はマクドナルドや吉野家あたりには行きません。稼いだバイト代を握りしめた高校生の私が毎週のように向かうのはフレンチや中華、インド、ロシア料理のレストランや鮨屋などであり、一回の食事に数千円〜二万円くらいかけるのが常でした。

 

実家が太いわけでも全然ない一介の高校生風情としてはなかなか頑張って食い道楽を実践していたわけですが、この行為を理解してくれる大人は周りに少なくなくて、「おまえ、ガキのくせにおもろいな!」とか「若いのに食に目覚めちゃって、こりゃ将来が思いやられるわww」とか「おしっ!おじさんがもっと美味い店教えてやろう!奢ってやるから一緒に来い!」などの是認を受けることが多々ありました。

 

しかし、これがもしドイツ社会で、実家も太くない一介の高校生が食事にこんなお金を掛けていたらバカだアホだクレイジーだと批判する大人はメッチャ多いのではないかと思われます。ドイツではやはり一般には「節約」が尊ばれ、例えば同じソーセージを買うにしても高い店より少しでも安い店で買う行為が是認されますし、食はあくまでカロリー摂取のための行為として捉え、美味しいとか美味しくないとかは二の次であるとうそぶく人もちょいちょいいたりするくらいです。

 

 

例えば河原でBBQをやるのに日本人の友人数名とは別にドイツ人の方を4〜5名でも呼んだとします。日本人メンバーはほぼ確実に何かしら持ち寄ります。肉かサラダかデザートかの何かしらは一々言わずとも各自がみんなで分けて食べられる分量を持ってきます。しかしドイツ人はどうかと言うと、1人か2人は日本人メンバーのようにちゃんとみんなで食べられる食材/食品を持参して来ますが、二人くらいは自分専用として一人前だけのお肉とかソーセージを持参し、残りの一人は手ぶらで河原にやってくるのです。

何度も見聞してる実話ですw

| 23:33 | Die Kultur | comments(0) | - |
日独は本当に相似形か?

「日本人とドイツ人ってよく似てるよね/似てるみたいだよね」

 

まだ日本にいる頃から時折耳にしていた言説に、日独がよく似てる、もしくはよく似ているらしいと云う説話があって、何が似ているかと言えば、それは両国の文化性であり、両国民の正確性を重んじる気質であり、共に勤勉を是とする旨の結論を導き出すために、その言説は便利に用いられていたよう記憶している。かつての旅でドイツの地は踏むには踏んでいたが、当地のことを深く理解するには到底及んでいなかった私はそんな言説に特段の意を覚えることもなく、「へ〜、両国はいろいろ似てるんだ。そうなんだ。じゃ、ドイツ人と付き合うのは楽かもね」ぐらいのボンヤリとした感慨を持つのが関の山だった。

 

"Deutsche und Japaner sind sich sehr ähnlich!"

かくして私は十年前に渡独を果たしてみると、ドイツ人の中にも上記のようなフレーズを用いて「日独よく似てる説」を唱える者が時たま現れるから、渡独後しばらくの間は私も頑なにその説を信じ、「両国は相似形である!」などと呪文を唱えつつ、異文化適応を目指していたのだけれど、ドイツ−ミュンヘンでの暮らしが二年、三年、四年と経つうちに私の中でひとつの疑問がゆっくりと頭をもたげることになった。

 

それは「日独両国って実は別に全然似てないんじゃないのか?」との疑問であり、そのような仮定で我が半径20mくらいの風景を見回してみると納得の行くことが多過ぎるくらい多く、在独五年に至る頃には前述の疑問は結論へとすっかり変態変容を遂げていた。そう、日独両国の文化性も国民性も気質も実はかなり違っていて、勤勉さに関しては日本のそれを凌駕するにはドイツは遠く及ばない!と確信したのである。

 

しかし、ここで誤解してほしくないのは、両国の諸々が大きく異なっていて、日本人の勤勉さが頭抜けているからと言って、手放しで「ニッポン、やっぱ最高だぜ!!」と述べようとしている訳では決してなく、それぞれには特徴や特色があって、日本人とドイツ人の気質や考え方の差異をしっかりと見極めないことには、両国間の交渉も、両国人のお付き合いも、腹の探り合いも、あれこれ首尾よく行かないよ!などと警鐘を鳴らしてみようという算段で今回このブログを書いた次第。

 

私の個人的の思いとしては、議論や話の結論に至るまでの速度と経路が日独両国人ではまるで違うということを強調するだけに今回は留めておき、一枚の図表を最後に貼ってこの項を締めることにします。

日独それぞれの思考経路図

続きはまた今度。

| 06:05 | Die Kultur | comments(0) | - |
渡独したからには向き合わざるを得なかったもの

渡独を考える遥か以前、今から四十年も前の十代の終わりに私たちの世代は映画「ザ・ウォール」と出会う。それは西暦で言うに、1982年のことであるからボブ・ゲルドフ主演「Pink Floyd The Wall」のことであり、数年前に話題になった同名作品(名匠ダグ・リーマンが監督し、イラク紛争を題材にした一幕舞台劇「The Wall」封切2017年)のほうではない。後者は後者で大変面白く、個人的にはオススメ作品なんだが、それは又別の機会に取り上げてみたい。40年余り前、十代後半の私の目に止まったのはそちらではなくて、「Pink Floyd The Wall」のほうなのである。

 

この記事は映画紹介ではないので同映画作品の詳細は省くが、劇中、次第に精神を病んでいく主人公のロックスターは自分がステージに立つコンサートを、かつて中部欧州を席巻したナチ党の大集会とダブらせるようになる。カリスマを前にして極度の興奮状態に陥った群衆による歓呼、喝采、叫喚の様子が作品の後半で描かれるんだけど、私はその作品を見て、作品のモチーフとして用いられたナチス政党とその党首アドルフ・ヒトラーに関心と興味を持った。

 

とは言っても、それは同作品の中に出てくる群衆のそれのような熱狂的で肯定的な興味と関心ではなく、かと言ってその反対に「全力で否定してやろう!」という拒絶的なものでもなくて、未だ実際に体験したことも見聞したこともない事物に対する探究心を呼び起こされたという意味に他ならない。それで映画を見終わった翌日に書店へと走り、まず買ったのがアドルフ・ヒトラー著「我が闘争」の上下巻二冊だ。その二冊は繰り返しの言説ばかりが多い全くもって冗長な著作であり、ひどく退屈な本だったので、下巻半ばで読むのをやめ、次に買ったのが「ナチス統治下の民衆生活―その建前と現実」、「ヒトラー政権下の日常生活―ナチスは市民生活をどうかえたか」、「ヒトラー神話―第三帝国の虚像と実像」他数冊を読み漁った。

 

そのあたりで一旦かの政党と総統にまつわる認識を組み立て終わっていたのだが、渡独に際して居住することになったミュンヘンが、かつて同政党の本拠地だったこともあり、党の旧本部跡だの、総統の家1&2だの、ミュンヘン一揆の現場だの、白薔薇事件の現場だの、ユダヤミュージアムだの、同党に関連する事物が身の回りに沢山あるし、同党にまつわるドイツ人たちの反応や捉え方が分かってくるにつれ、一旦落ち着いていた探究心に再び火がつくことになった。「リアルに現場(その後のドイツ社会)を知るに、私が日本で組み立てていた筈の同党にまつわる認識はどうやら少々ずれていたのではないか?」そう思い始めたわけです。

 

それで同党と総統にまつわる書籍を再び買い漁るようになり、私のナチス探求はどうもまだしばらく止みそうにもなく、自在に現場を見て回ったり、ドイツ人たちに直に質問をぶつけてみたり反応を観察できる在独の幸甚を噛み締めたりしています。

 

※写真は1932年大統領選でのナチ党のポスターのパロディ

 

| 00:32 | die Geschichte | comments(0) | - |
ミュンヘンでやっと再稼働

丸十年ぶりのブログ更新です。

 

日本を立って来月で丁度十年でもあり、もはやアクセスする奇特な人もいないブログをそうっと再稼働させてみるこの試みが首尾よく行くかどうかは分からなくて、数回書いたところでやめてしまう可能性もあるにはあるのだが、でも一回ブログを始めると大抵は三年とか五年くらいは続けられるし、きっと今回もその程度はやれるんじゃないかと目論んではいる。ブログであれ、制作であれ、製作活動であれ、なんであれ、表現行為は継続するのが最大の難関テーマで、時々何か大声を出してみたり、長々と繰り返しのフレーズの多い自己主張をしてみたり、思いつきで批評的態度を取ってみたりするのは誰にでも出来るのだが、適当な分量の任意の思索を綴ったテキストを継続的にあげるのは相応に難しかったりする。それで私の場合は精々が3〜5年程度がその境界線になっている訳なんだけれども。

 

まぁ、ともかく書いてみよう。渡独にまつわる再設定(言語、文化、食、人、社会環境、仕事等々)の大変さや面妖さもあって電気的筆録を行わなかったこの十年のうちに世の中は激動を経験し、我々を取り巻く多くのものが変質し、変容をしてしまった。私自身もこれまでやってこなかったダンボールクラフトなどに活動領域を広げたこともあり、つまり書きたいことは山ほどある。あとはそれを私がちゃんとテキストに出来るかどうかの問題で、いきなりアクセルを噴かしたりは出来ないだろうけれども、ま、徐々に調子は整うのではないかと現時点では思っている。

| 20:07 | 立派な大人のための童話 | comments(0) | - |
西蔵電気筆録「今生の別のロジック」
 俺らは歯車か?
そんな命題は今更ボクが取り上げるまでもなく、有名無名を問わず世間の皆様が散々議論し尽くされた観さえある。良いも悪いもない。ボクらは確かに社会の歯車だ。会社の歯車である。それに何ら異論はないし、むしろ肯定的に歯車でいようと思う。

歯車は故障したり不具合が有ると交換される。それもよしとしよう。

しかし社会や会社を機械として、ボクらを歯車として、そういうロジックを採用するならば機械設計者は誰なんだろうか。歯車が故障するのは一義的にも二義的にも歯車が悪い訳ではない。機械設計者が悪いのだ。そいつがボンクラだから故障の多い機械を設計する。

というわけで歯車の日常風景を振り返ってみよう。
出来の悪い歯車は仕事の憂さを霽らそうと酒を飲み、ついつい飲み過ぎて、毎日毎晩飲んじゃってアル中となり、いっぽうでは少ない身入りを増やそうとパチンコや競馬に嵌って借金をこさえる者たちがいる。そこまでいかずとも一生懸命働いても僅かな蓄えしか残らず、やる事なす事うまくいかずストレスを抱え、身近な我が子や伴侶や親などに辛くあたっては、時に斯くも出来の悪い我が姿を鏡で確認したりして呪いの言葉が口をつく。「やってられねぇんだよ!」

日常。毎日。いつもの光景。至極あたりまえの出来事。斯くの如き不出来な歯車はそこらに何十個でも何百個でも転がっている。もし、そのような例は見た事がないと言う人がいたらその人はわかりやすい嘘つきか、もしくは一族郎党が栄華を極める誉れ高き家に生まれた気高き者のどちらかだろう。

歯車が狂い、歯車が壊れる。歯車の設計者は私のせいじゃないと言う。しかし誰が責任逃れしようとも壊れる歯車の残骸はボクらの傍らにどんどん積みあがる。これからはもっと拍車がかかる。

果たして歯車が悪いのか?
歯車の出来が悪いのか?
歯車が不具合を起こすのは歯車に原因があるのか?
否。制度設計者が悪いのである。

考えてもみてほしい。出来の悪い歯車がパチンコで借金を抱えたとしてそんなものはたかが数十万とか数百万とかである。横領だ賄賂だ背信だ天下りだで大金庫から金銭を抜いてる制度設計者たちが手にする金の数十分の一、数百分の一、数千分の一に過ぎないではないか。出来の悪い歯車はたかが数十万とか数百万とかのはした金のせいで社会の落伍者の烙印を簡単に押され、ダメ人間と後ろ指を指される。かたや制度設計者を自認するものたちは湯水のごとく無駄金を使い、浪費してみせては「これが豊かさである」などとうそぶいては胸のひとつも張って見せる。


これは不均衡だの富の配分だのに問題があるわけではなく、設計者の体たらくと能力の低さ。これに尽きるのではないかとボクは考えます。生まれてくるときボクらはただ一人の例外もなく制度の中に生まれてきます。制度に入るか否かを自分で選択してどこぞの国籍や市民権を得ているわけではなく、産まれてくると親が勝手に名前を決め、容赦もなく戸籍に氏名を書き込まれ、義務と責任を持たされて、適当に身体が大きくなったあたりで成人と見做されて納税義務を背負い込まされ、そして社会に放り出される。これが見まがう事なき実態であり実情です。

そりゃ巧くやれる者もいるでしょう。しちめんどくさい事は適当にさばきつつ、頑張りどころを踏まえ、要領よく首尾よくやれる者が良質な歯車であり、制度設計者が期待してるのはそのような者たちです。

おそらくはボクも又その中の一人だと思います。とは言っても品質維持ラインのギリギリぐらいに引っかかってるだけ。歯車として交換されたり外されたりは確かにしなかったけれど、ボクは自分の周囲にごろごろ転がる前述の如き壊れた歯車やネジを見るたびに我らが世界の制度設計の拙さ 酷さ しょーもなさに憤りを覚えないわけがありませんでした。


この稚戯のごとき珍妙で嗤っちゃうような最低ランクな制度設計世界でうまくやってる奴がどれだけいるのかボクは興味がないからわからないけれど、うまくやれない奴はいくらでも知っています。アル中やパチンコ破産なんてわかりやすくてまだましと思えるくらい。

うまくやれないヤツの大半は本人がその自覚さえないから誰の目にもその病理は鮮明には映らない。でも、よくよく見詰めると見えてきます。例えば、一向に効果をあげないダイエットやエステに年収以上のお金をつぎ込んだり、医者の勧めるままに検診を受け、複数の薬を飲み分け、二本三本と保険に入っても尚解消されない不安をもてあましていたり、テレビ番組に感動させてもらう事をやたらと求めたり、アホみたいにテレビのチャンネル行ったり来たりさせながらメシ食ってたり、移住先や引越し先で地元の人に憤懣やるかたなくトラブルばっか起こしたり、終日FaceBook開いてはせっせとコメント書き込んでいたり、金の斧やなんとかのつるぎ買い込みすぎてネトゲー破産したり、まだまだあるけど、うまくやれない病理は色んなカタチをしてボクらの半歩後ろをくっ付いてくる。

でも、これらの人たちにはほとんどその自覚はない。うまくやれてない自覚がないどころか、自分はこの世界でたいそう上手くやれている筈!とまったく逆の事さえ思い込んじゃってる。そう。つまり、上手くやれているか否かの基準はけっして収入の問題じゃない。うまくやれない事と収入に一定の相関関係はあるでしょう。でも因果関係はない。ボクはそう捉えています。



ガタンゴトン。振動しながら動く大きな大きな機械。
外れた歯車。機械の隙間から転がり出て、床に落ちる。
そこにあるのは幾つもネジや錆び落ちた鉄片。長い髪の毛。剥がれた爪。涙。血。
機械を動かす者も、機械を作った者も、誰も床などには目もくれない。
機械が変な音を立てたり、動きが悪くなるとドンッドンッと叩く。何度も叩く。幾度も叩く。
目先のコストを重視する機械マネジャーたちはメンテナンスなど気にしない。
壊れるまで稼働させる。壊れるまで電気スイッチを切ろうとしない。

叩いた機械が再び動き出すと彼らは「ラッキー」とうそぶいて、また忙しそうに動き回る。



5年ばかり続いた西蔵電気筆録は本稿をもちまして終了です。
長い間読んでくださった方にも最近の読者の方にも感謝をいたします。
当初、仕事用と思って始めたブログでしたが、311があり、その後の混乱期を経て、気がつくととても仕事のご紹介と呼べるものではなくなっていました。これより仕事の場を海外へと、ネットへと移しまして新たなブログを始める予定です。今度はちゃんと仕事のご紹介ができるものになればいいけれど、さてどうなることやら。

ちなみに石垣島を愛してやまないボクですので島に仕事の拠点を残しておくのは言うまでもありません。Tデザイン社も伊原くんがそのままに稼働いたします。ボクとしては「ちょっと島をあける」そういう感覚です。

西蔵電気筆録を読んでくださった皆さん、さようなら。またいつか。










| 13:04 | - | comments(4) | trackbacks(0) |
new style

これからの広告についてここのところよく考えている。

従来の広告とはそのほとんどが美辞麗句を並べ、体裁の良い写真や絵で飾りつけ、当たり障りのない言葉でずらずらと説明を加え、アクセス方法をでかでかと打ち出して広く世間に対して店なり人なり商売なりを知らしめようってものがそのほとんどを閉めていました。ま、なかには確信犯的で刺激的なキャッチコピーや写真を用いる場合もありますが、それはあくまで表現方法の差でしかなく、広告としての基本構造にはさほどの違いはないでしょう。

では、この従来の方式の要点とは何でしょうか?

至極端的に言うに演出です。
綺麗に見せる。
体裁よく見せる。
分かり易く効果的に並べてみせる。

これらはすべて演出であり、あらかじめ何をどのように見せたいのかを計算し、それを意図し、経験則的に体系的にデータを再構成したものが従来の広告のほとんどです。大手、中小を問わず広告と名のつくの物を言語化してしまえばそのようなモノであり、無論、我がTデザイン社が制作する広告だってその御多分にはもれません。

演出を嘘と呼ぶつもりはありません。広く他者に伝える為の道具として生み出された広告であれば然るべくして伝達の精度を上げるため演出や、効果を上げるための為の一定の演出が必要とされてきたわけだし、それを嘘だの虚実だのと呼ばわるには通らぬ無理があります。

しかしながらこの演出と言うのがクセモノで、その程度や種類や方向性に別に唯一無二の基準があるでなし、演出の運用はあくまで広告制作者や企画者の裁量に任されるがままこれまで来たし、おそらくこれからも当面はそのスタイルが主流であり続けるでしょう。

なれらこそ演出がいつなんどき嘘に転じてしまうか危ういと言わざるを得ず、実際にまったくの虚構が広告に混ぜ込まれている場合が往々にしてあるのは誰もがご存知の通りだし、確信犯としてそれを行っている広告だって現実にはあって、それをもって広告の持つ欺瞞性とボクなんぞは呼称しております。


例えばTwitterでボクがフォローしているキリグアさん。彼女はグアテマラで宿を営んでいて、そこの日常のあれこれを彼女の平たい言葉で表現し、たまに彼女の視界に写っている物を写真としてアップしてくれています。で、彼女の言葉は決して品行方正ではなくて、嫌いなものは嫌いとはっきり言葉にし、愛して止まぬものや それに愛情を注ぐ様もそのままに表現します。

で、それらのツイートを日々拝見するボクにしてキリグアの宿に行ってみたくて仕方がなくなる。多分二週間の時間がとれるならいつでも行くぜ!などと思ってしまうわけですが、それこそがまさに新しい広告のありかたなんじゃなかろうかと思うわけです。

過剰な美辞麗句を並べたり、ありもしないサービスを謳ったり、Photoshopでいじり倒した写真嵌め込んだりするのではなく、ただ己を表現する。ただそこにあるものをあるがままに表現する。自分が見ているものを見ているままに伝える。

それに嘘偽りがないなんて言うつもりはありません。個人の目に映ったものが言葉や写真として情報化された場合にフィルターがかかり個人性のバイアスがかかるのは当然です。言ってみれば表現者なりのフィクションがそこにひとつ生まれます。そのフィクションとは大人向けの欺瞞や子供向けのおとぎ話ではなく、表現者個人の暮らし方であり物の見方。


ホントは今だってそう。幾重にも覆い被さってる虚飾や演出をひっぺがせば何も無い人は何も無いし、薄っぺらい人は薄っぺらいし、面白い人はそのままで面白い。逆に言えば何も無い人や薄っぺらいひとほど虚飾も演出も過剰にならざるを得ず、面白い人はやっぱりそのままで十分に面白い。

自分自身が自分を面白がれない限りは他者に面白がってもらえる筈はありません。自分を面白がり、自分が言ったりやったりしてる事を面白がる。それをそのまま表現したら最高の広告となる。それがボクの考える広告の新しいスタイルです。

現行 巷に蔓延る広告は、あわよくば他者を騙してやろうとか、自分や自分のとこの商品に演出加えて少しでも良く見せようとか、過大に見せてやろうとか、ありもしない付加価値付けてやろうとか、そんなのばかり。広告に使う女性オーナーの顔写真からPhotoshopでシミやほくろ消すぐらいはなんぼのものでもございません。かくありたいという願望をアドビ製品を使って表現したに過ぎないでしょう。でも厳選されてもいない食材を『厳選素材』と謳うのはやっぱ虚飾であり、ろくな社員教育もなくサービスの訓練もされてない従業員をして『親切な専門スタッフ』と呼ばわるのも演出に過ぎません。

ありもしない効能を謳うなんての未だに広告に用いられてるわかりやすい虚構ですが、本当はもっと解りづらいカタチで広告の虚飾は為され、大半の人はその虚飾や演出に気づかない。容易には気づかせないそれは、わかりやすい稚拙なそれよりも悪質です。

例えばダイエット製品広告の常道とも言えるビフォア・アフター。あの変わり身と謳い文句のダイエット効果の欺瞞はあまりに判りやす過ぎて、あれをそのまま信じる人は今時いない筈ですが、厚生省が認可する特定保健用食品の欺瞞はなかなか巧妙で多くの人々が欺かれてしまう…

虎の威を借るなんとかじゃありませんが、国家(権威)のお墨付きには誰しも弱いものです。そして広告の現状もまた虎の威を借ることで維持され、幾重の虚飾と演出テクニック頼みなのが偽らざる現状と言えるでしょう。

権威付けばかりではなく、多くの人がその価値を疑わず信じることで付与されるプレミア感。著名人を起用したり利用したりすることで発生させるブランド力。時流に乗り流行りを追いかければ誰にでも生み出せる安心感。それらがみんな嘘っぱちで悪辣とはまでは言うつもりはありませんが、それらを用いる事で一尺しかない身の丈を三尺にも五尺にも見せる広告はここらでもう終いにしたい。

広告の現状に何ら疑問を抱かない一般消費者は確かにまだまだ多いし、それら騙されやすいクラスタは未来永劫不滅なのかも知れませんが、一方で虚飾と欺瞞に満ちた広告の現状に呆れ果ててる人たちもまた確実に増えています。

ロークォリティー・ローコストのものを少しでも高く売り、利鞘を厚くせんが為の広告が死に絶えることはないのでしょうが、ボクはグラフィックデザイナーの立場としてそれを否定するし、そういう商売には加担したくありません。例えボクの稼ぎにならずともボクは広告のnew styleを標榜し、支持します。

だからと言ってハイクオリティの商品や会社や店舗や人だけがいいのだと言ってる訳では全然なく、有る物を有るだけで表現する。そのよう広告を世に出すお手伝いができれば本懐かと。


※本稿に使用した写真はキリグアの宿のブログより転載しています。


| 03:39 | about us | comments(0) | trackbacks(0) |
風カフェ。小浜島。(たまには仕事の話でも)
 
仕事の話なんか書くのは何年ぶりだろうってくらい与太話ばかり書き連ねる今日この頃。皆様いかがお過ごしでしょうか。わたくしも仕事はしてるんです。最近はわりと本業が忙しかったりするんです。311からこっちはしょぼくれてる事も多かったけどねw 

今日のお客様はventare  caff。沖縄県八重山は小浜島のビーチサイドに新規オープンしたお店です。イタリア語を用いた店名は勿論クライアントによるもの。和訳するに『風カフェ』。今回はこのロゴ制作と、看板、スタッフポロシャツなどをご注文いただきました。

今節のデザインの肝は熱々のカップから立ち上る湯気が風にたなびくロゴマーク。極めてシンプルながら説明不要のマークでしょ?w クライアントにも喜んでいただき、このマークはスタッフポロシャツの左胸にワンポイントでプリントされてます。今度小浜島へ行ったら可愛い女子スタッフが着てるところ写真に撮って来てアップしましょうね。

文字のほうも既存フォントをシェイプアップし再調整して風の通りを良くしております。そして島の木工屋『うえざと木工』さんに発注して作ってもらって看板が最高でした。木の看板を作る際は是非みなさんも浮き彫りをお試し下さいませ。店の格が2ランクぐらいあがりますから!

ってことで、仕事の話は短めにw

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