Tデザイン社 西蔵電気筆録

沖縄県は八重山郡 石垣島に開設したデザインオフィスから発信する業務日誌改め、ドイツはミュンヘン市に居を移して発信する

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抵抗を宣言する
中学3年の頃。
六時間目の授業が終わり、さあこれでやっと家に帰れるとホッとしていると決って校内放送で呼び出された。「三年五組の西蔵くん、ホームルーム終了後 数学準備室まで来てください。繰り返します。三年五組の   

ありし日は数学準備室だが、その翌日は国語準備室で、次の週は体育教官室だったり理科準備室だったり呼び出される先は色々だ。

なんで呼び出されるのかって ボクがメチャメチャ不良で 地域一帯を〆ていた非行少年の番長だったから、みたいなもっともらしい理由なんかではなくて、日を替えて繰り返し繰り返しボクを呼び出す教師らはただ単にボクを言い負かそうとしたのだ。生意気なくそがきを説得しようと試みたのである。けれどボクは生半(なまなか)には陥落しなかったので彼らは次々と手を替え 品を変えボクの前に立ちはだかったってわけだ。

じゃ何故にボクが教師からターゲットにされなくてはならなかったのか?

その理由のひとつはボクの糞生意気な態度にあったのは確かだった。中学生にはありがちな事であるが当時のボクは完全に大人をなめていたし、こちらとしては無理解極まりない世の大人たちと闘っている気でいたから好戦的な態度を隠したりはしなかった。

加えて教師らが反応したのはボクの生意気な態度ばかりではなく、ボクが執拗に訴える主張に呼応したのである。なんなればその主張とは現行の社会的慣習や制度の否定であり、現行の教育のありかたへの批判であり、恥ずかしいぐらいにバリバリの理想論をボクがぶちかますが故に、公務員というカタチで現行の社会制度に上手に乗っかりそこそこ上手くやってる教師らにしてみれば自身の息子ほどの若年者からの批判に甘んじるなんて選択肢がある筈もなく、彼らは緊急措置的に結集し、教師団を結成し、職員室の片隅でスクラムを組んだぐらいにして意思と態度の統一を図った後に寄って集って中三のボクを説き伏せようとしたわけだ。

ま、好意的に捉えるならば彼らはボクの先行きを案じてくれたのかもしれない。「こいつ、このまま大人になったらヤバイでしょ。社会の中でやっていけないよ。間違いないよ。中学生の今のうちに考え改めさせてやんないと。ね、みなさん」ってな事だったのかなと思わないこともない。実は、ボクを毎日呼び出す彼らの態度はとても真摯だったし、友好的な雰囲気の中で毎日のディスカッションは行われたのである。

しかしボクにしてみたら彼らはやはり敵軍の将兵でしかなかった。なんなれば彼らはボクが主張展開する青臭い理想論に一定の理解を示しつつも基本はそれを否定する態度を決して崩さなかったのである。例えばこんな調子だ。

「え?なになに。暗記能力が高いのと学力が高いのは違う筈だって?そりゃそうだ。確かに西蔵が言うように記憶するのと考えるのは別もんさ。それに間違いはない。でもな、オマエがそう言ったからって受験制度が変わるのか?変えられるのか?変えられないよな?な、そうだろ。オマエがいくら声を大にして今の受験制度は変だ〜、おかしい〜、腐ってる〜、なんて言ってもなぁ〜にも変わんないのだよ。制度とはそういうもんだ。わかるだろ?じゃ、その制度を利用したらいいじゃないか?批判しても何も変わらないのなら利用したらいいんだよ。な、わかるだろ。え?なに?利用なんかする気はないってか?そんな話をしてるんじゃないってか。そう言われても俺も困るんだよ。俺が受験制度を変えてやれるわけじゃないからな。わかるよな。先生の言うことわかるだろ?な、西蔵」

ま、確かにわかるんだけど、分かりたくない。
誰かに変えて欲しいなんて思ってないし、変えるのが簡単だなんて夢見てもいない。ジョンレノンが叫ぼうと清志郎が歌おうと、はたまたキング牧師が暗殺されようと変わって欲しいものが変わってくれたわけじゃない。

ちっとは動いたかも知れない。ま、でもほんの僅かだ。たいした動きじゃない。全体を俯瞰してしまえば見えるか見えないかわからないぐらいの小さな動きだ。

例えばジョンレノン。清志郎。不遇を囲っていたとは言わぬまでも彼らの晩年は多くの批判に晒されていて、特にジョンレノンなんて「オノヨーコのせいで落ちぶれた」だの「才能は枯渇してしまった」だのと散々っぱら言われ放題言われていたのに、死んだ途端にいきなり世間の皆さんは英雄視するからボクは随分と驚いたんだ。『なんだよそれ。じゃ、生きてる間に大いに支持してやってくれよ。死んだあとにいくら英雄に祀り上げたところで彼はもう二度と俺らの前に立てもしなければ言葉を発することもないじゃないか。糞っ。面白くねぇ。全然、おもしろくない。死んだ奴をいくら祀り上げたところでなんの意味もない。なんの実効性もない。そう。実効性がないからこそ皆はこぞって祀り上げるんだろうな。清志郎だってそうだ。生きてるときは彼が歌う反原発ソングを多くの人が支持もしなければ注目もしなかった。為政者を敵に回した彼のアルバムを多くの人が買わなかった。むしろあの時期から彼を公然と批判する連中が増えたぐらいなのに、でもやっぱり死んだらまたまた英雄視するって寸法だ。実効性がなくなった人を選んで英雄に祀り上げる方式にはいい加減まいるね。どうもこうもないね。結局のところ誰も何も変える気なんて本当はないわけだな』そんなふうに毒づきつつ辺りを見渡してもやっぱり何も変わらない日常と社会と世界がそこに でんっとある。

そういうわけでボクは死ぬまで分からず屋の青臭いガキでよいと思っている。今後の人生を小利口に振舞う気もなければ賢人だの偉人だのになりたいとも思っていないし、なれるとも無邪気に思ってないし、ましてや『世界を変えた10人』なんてキャッチコピーを付けられて有名月刊誌の表紙を飾るような人種になりたいとも思わない。

ボクは、小利口で小賢しくてクソものわかりわるい教師たちから目を付けられたり、厄介者扱いされたりする人間として一生を終えてよいと思っていて、そんな教師連中の親玉たる為政者に対する抵抗運動を生涯続けられるならそれで本望だし本懐なのである。何も変わらなくても抵抗は出来る。

抵抗こそがせめてもボクの良識だ。


| 02:02 | 東北関東大震災 | comments(0) | trackbacks(0) |
今 描くべきSF世界

19世紀。SF世界は概ね明るく希望に満ちた未来社会を提示してきたが、20世紀になるとそれは一転して、紙面やスクリーンの上に描かれる世界はあらゆる社会システムが摩滅瓦解崩壊したあとの廃墟の如き世界であり、汚染され衰退した自然環境となる。

略奪と暴力が蔓延る核戦争後の世界に細々と生きながらえる人々を支配するのは諦観と絶望だったりするし、ま、概ね碌でもない空想世界をこれでもかこれでもかと作家連中は寄って集って描いてきたわけだけど、ボクなどは正味やりすぎだろと思っていた。

そこまでじゃないだろ〜
いやいや、やりすぎだからw 単純にやりすぎww 単純に描きすぎwww 
だいたいさ、奪う労力に見合うものもないのに何故暴力的収奪者がいたり、もう壊すものもないのに破壊者がいるんでしょうか〜?

なんて具合の嘲笑気味の感慨を抱き、毎回最後の〆はこのような思いだった。『いや、マジにさ、みんなそこまでバカじゃないから。社会にバカが一定数いるのは確かだろうけど、社会全体として見た場合そこそこの制御もできるし、状況の見極めや判断なんかもしっかり出来るんじゃないの。うん。できると思うよ。うん、できるできる。大丈夫』

だが、今般ボクはそんな楽観的な考えを改めなくてはならないかも知れないと思っている。なんなれば何期もの原子炉が重大な事故を起したというのに世間様はずいぶんと鷹揚に構えてるじゃないか。騒ぎ立てる必要さえあるのではないかとボクは考えているし、かつてない重大な問題と捉えいるのだが、この国に暮らす人々の多くは福島県だけの問題としてるふしさえある。これは一体どういうことなのだろうか?事故直後から菅政権が一生懸命流布し続けた『ただちに健康に被害はありません。今回の原発事故が重大なものと政府は考えていません』なんて幼児だましの文言が一定の効果を示しているということなのだろうか。

ま、そうは言っても今一度大きな地震に見舞われたら崩れ落ちるかも知れない原子炉があるというのにメディアはアイドルタレントの総選挙結果を発表してはキャーキャーと騒ぎ立て、被曝は安全であると犯罪的なコメントを吐く学者が福島県のアドバイザーに就くだけでは済まず、世間の方々はその無責任極まりない被曝安全説を耳にして胸を撫で下ろすというありさまにボクは悲観の色を濃くせざるを得ないのである。

そしてそれはボクにとって到底信じられない光景だったりする。

否、信じられないとかじゃ最早なくて、アイドルタレントの選挙を仕掛けるいい歳をこいたオトナたちも、それに歓び勇んで投票した人たちも、その選挙結果にキャーキャー言う人たちもボクの目には狂人もしくは精神を病んだ人としか映らないのである。

ボクがナイーブすぎるのだろうか?ボクは神経症なのだろうか?原発事故を気にしすぎなのだろうか?

もし仮にボクがそうだとしても、では翻って本来対岸の火事である筈の海外の国々が今節の原発事故をかなり重く受け止め報道してるという現実はどう受け止めるのか。海外の人たちはナイーブで神経症で原発事故を気にしすぎなのだろうか?

政治家は原発の重篤な事態から国民の目を背けさせたいのか政局騒ぎを起し、そうでなくても低俗極まりないテレビマンどもは政治家の尻馬に乗っかり更に事態をおもしろおかしく煽り立てる。国も地位法自治体も政治が斯くもテータラクであっても権力者や為政者に同調支持する付和雷同型の人間は腐るほどいるし、現実問題としてそれほど多くの人を避難させるのは経済的にも技術的にも難しいとか困難を伴うとか仕方ないだと言って原発周辺の福島や宮城や茨城なんかの人たちが大量被曝するのを指をくわえて眺めるだけの私たち。

間違いない。ボクは楽観的だった。20世紀に次々と創り出された暗澹たるSF的未来図は既に下絵を描き終わっているのだ。そのカンバスには既に重い色の絵の具が次々と置かれ、塗り込められている。ボクは最早楽観的にはなれない。日本人の知性は信頼信用するには及ばないのではないかとさえ考え始めている。

だからこそ今ボクはあえて描きたい。
描かなくてはならないと切実に感じている。
その描かれるべきSF世界とは、明るく希望に満ち満ちている世界に他ならない。

| 10:23 | 東北関東大震災 | comments(0) | trackbacks(0) |
福島県からやって来る走りの伝道師
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スプリント(短距離走)を専門にやってる人で名前を知らない人はほとんどいないであろう、もし名前を知らない人がいるとしたらそれはモグリのスプリンターじゃないかと断じて差し支えないほどに著名な陸上競技指導者である川本和久さんが石垣島へやって来るのは明日19日(火曜)だ。

しかしながらボクは人の肩書きはほとんど興味がないというか肩書きのせいで見誤ったり騙されたりすることがあまりに多いので昨今では敢えて人の肩書きを見ないボクであるが、川本さんはその肩書きではなくて実績にやはり目を見張るものがあるので個人的にも今回の石垣島入りには大いに期待している。

ま、肩書きも実績も川本和久さんでググっていただければ列挙されると思うのでここではやらないけれど、ともかく八重山の子供らは競技者各位には川本氏が指導するポンピュン走法で更なる高みを目指してもらいたい。でもって我がTデザイン社は協賛として明日もまたチャリティに明け暮れるのだ。

ン〜、さっぱり儲からんな〜w

【追記】
あ、そうそう。2時間で足早くなるぞ。みんな来いよ。
ちなみにボクは39歳から足速くなったぞ。マジだぞ。
おじさんでも間に合うんだから若い衆はポンピュン覚えない手はないでしょ。
無料だし。

って事で八重山の皆さん、明日の午後5時から石垣市陸上競技場です。
よろしく。
| 17:07 | 東北関東大震災 | comments(0) | trackbacks(0) |
pray for japan 誰のために祈るのか。何のために祈るのか。祈るとは何だろうか。
 
あえて不遜な物言いをしよう。
pray for japan。上のイメージは西表カフェの満留隆一さんとボクで義援金を集めるべくチャリティ販売したTシャツであるけれど、このデザインで行くに当たって別の友人からちょっとしたクレームがついた。「おいおい、祈り(pray)じゃないだろう。金(money)だよ、金。金集めて送るのが一番の支援じゃないか。祈っても何の支援にもならないよ」

ま、友人の理屈には確かに一理ある。って言うか震災復興に関して金銭的なものが一義的意味を持つのは当然すぎるほどに当然なわけで、別に反論のしようもないし、反論するつもりも端からない。しかしてボクはその前日 満留隆一さんからチャリティTシャツの話を振られた際に30秒ほど熟考せしめ、ネットに出回ったコピーであるpray for japanを敢えて採用することにしていたので真っ当なクレームをつけてくれた友人にはこう答えた。「わかってる。でもprayで行くよ。moneyは被災者にとって一番必要なものだろうけど、prayは日本人みんなに必要だと思うから」

なにゆえか?

祈ったって何の意味もない。祈りなんて何にもならない。祈ってる場合じゃない。確かにボクもそう思う。本音である。でもそう思える自分に対して実は疑問も同時に覚えていた。

本当か?本当に祈ったって意味はないのか?今は祈ってる場合じゃないのか?じゃ、いつなら祈ってる場合なんだ?祈るに適切なタイミングとはどこなんだい?

正直に言おう。ボクは1964年に生まれてからこのかた祈ったことなんかなかった。実利功利を求めるのを善しとする世の中に生まれて、12年間の小中高時代を通じて常に損得を優先するよう教えられたし、それをカンペキに実践するには至らずとも常に実利功利を意識せざるを得ずに46年間を過ごしてきた。祈りなんて何処へやら。って言うよりボクのごとき者には最初から祈りなんてなかった。

そしてこの大震災が起きた。

無力だったよね。
あまりにボクらは無力だったよ。
ボクらが如何に汗水たらして作ったものであろうとも、皆で力を合わせて作ったものであろうとも、科学や技術の粋を結集させたものであろうともすべて波に持って行かれたし、そこに端を発した原発事故という人災も巻き起こった。

圧倒的だ。絶対的と言ってもいいかも知れない。おそらくボクら人間は未来永劫地震も津波も核分裂も制御できない。ある限定の中だけで制御したつもりになれるかも知れないが、カンペキに制御できることは金輪際あり得ないって事をこの震災で実感した人は多いだろうし、ボク自身はそれを嫌というほどに見せ付けられた気持ちでいる。

そのあまりに圧倒的な力を前にしてボクは生まれて始めて祈った。津波が全てを覆っていくニュース映像を見ながら祈るしかなかった。たくさんの命が津波の中に消えて行ってるけれど、なんとかして、どうにかして一人でも多くの人が助かりますように。生き延びますようにと。

生き延びさえすればあとはお金がなんとかしてくれる。でも生き延びるか否かを決める圧倒的なものの前でお金は無力です。ボクらは実利功利の中で暮らしているとこの地球に厳然と存在している圧倒的な力を忘れてしまうけれど、果たしてボクらのそのような振る舞いは正しいのか。

正しいという言葉に宗教的なものを感じるなら適切という言葉に置き換えてもいい。圧倒的な力を神と呼ぶことにボクは抵抗があるし、呼ぶべきではないと思っている。しかしそれでも圧倒的な力はボクらのすぐ隣にいつもあって、それを感じ取れないのはボクらの身勝手な驕りではないかとも思っている。

それを感じ取るために必要なもの。それが祈りだ。
圧倒的な力を前にして思わず膝まづく。それが祈りだとボクは思っている。
どこぞの宣教師よろしくそれが正しい行いですと他人に説いてまわるつもりはないし、ボクが何を言ったところで世の中の趨勢が実利功利を機軸にして今後も回り続けるのは確定的だ。

でも、だからこそボクは敢えて言う。ボクらには祈りが必要だ。
少しだけ謙虚になるべよ。な、そうしようよ。
| 00:43 | 東北関東大震災 | comments(4) | trackbacks(0) |
最後まで正気でいられるのは誰か

これから書くことの一切が俯瞰に徹するのをどうかご了承いただきたい。俯瞰なんぞやりやがるのは当事者意識の欠如ではないのかと突っ込まれる向きもあるやも知れないが、当事者を引きずったままでは書けないこともあるわけで、はっきり言って3月11日に起きた大震災とそれに伴う人災としての東電原発事故(※福島第一原発事故とは敢えて言わない。福島という地名をチェルノブイリの如く原発事故の代名詞とするのはあまりにいたたまれないから)はボクにとってあまりに重い、重すぎる最悪としか思えない出来事だし、おそらくそれは世の中の多くの人にとっても同様なのではないかと思っている。

さりとて巷には様々な反応がある。
嘆き悲しむ人。怒り憤る人。絶望の淵に立つ人。議論を繰り返す人。ぼんやりとする人。そして意外に多いのが震災はともかく原発事故に関してはカンペキに対岸の火事を決め込み、我関せず、私は楽しくオシャレに生きるのよ〜しゃらららら〜って感じの人だったりする。

ボクは思うのであるが列挙したどの状態にしてもその全てが震災と原発事故に端を発しているわけで、この一連の惨劇が起こらなければ誰も家や家族を海に飲み込まれて嘆き悲しむこともなかったし、政府の被災者への対処が遅いではないかと怒ることもなかったし、漏れてる放射能は多いだ少ないだと議論討論を延々と続けることもなかったし、そして『騙されてようと誤魔化されていようと関係ない。政府が安全だって言うなら安全なの。終息に向かっているんだからそれでいいじゃないの。実際に対岸なんだから対岸の火事だと思って何が悪いのよ。偉そうなこと言って煽ってんじゃないわよ。ったく。アンタ殺すよ。私はネ、忙しいの。仕事も忙しいし、育児も忙しいの。原発なんかこれ以上構ってらんないわよ』みたいな無関心層をあぶりだす事もなかった。

しかし行動パターンはどうであれ皆さん原発事故を意識しているのである。やばいとか、まずいとか、怖いとか、不安だとか感じてる人は勿論のこと無関心層ですら同様ではないだろうか。

なんなればそれら無関心層の方々は、それこそ普段は政治家がテレビに映っただけでチャンネルを他局のバラエティ番組に変えてしまうわけだし、政治家の名前に至っては主要な大臣や幹事長さえ覚えていない方々が多数いるのが現実とあらば、今回ばかりは枝野長官の名前を覚えたのだから普段とは異なる精神状態であったことがうかがい知れるのである。

つまり政府広報を鵜呑みにして安全を口にする人であれ、要はやっぱ不安なのだ。怖いのだ。その裏返しとして枝野の要領を得ない政府見解に一切の疑義を挟まずに信じ込むという行為に出る。出るしかないのだ。政府トップの言葉が単なる気休めだろうと、甚だしくも無能だろうと関係ない。お上より「健康被害はなかろうや。安心せしめよ」と申し渡されたならば良なる臣民たるもの直ちに安堵せねばならぬのである。

あ。そうなんだ。プルトニウムってなんだか得体の知れない感一杯の名前だけど実は安全だったんだ!なんだぁ、よかったぁ〜!もう怖がって損しちゃったよ〜♪ 何日も怖がったぶん明日からは三倍楽しんじゃうわよ。だって私たちが経済回さなきゃ復興支援も進まないってテレビでやってたしね♪

はっきり言おう。果たしてこれらの人々の心の内とは如何なる様相となっているのか。すでに狂っているのある。狂ってるとはもはや正常ではないとの意である。例えばもし我々が日本の近隣に住む異国人で、その近隣たる日本国が原発事故の現場から核汚染された何万トンもの水や空気をどぼどぼと流せば普通に『おいっ!日本、何しやがんだよ!ふざけんじゃねぇぞ!こっちに流れてくるじゃねぇか!魚食えなくなるじゃねぇかよ!!』と訝ること憤ること必至であるが、それらの反応を向こうに我々は「安全だよ」とか「怖がる必要ないよ」みたいな言葉遊びを内閣のお歴々から我々一般人に至るまで等しく共有してるって、やはりもはや正常ではないだろう。

何ヶ月か後、もしくは何年かの後に訪れるであろうと世界中の多くの人たちが危惧してくれている健康や命の危機を「ただちに健康被害はございません。ご安心下さい」という碌な根拠も示さない安直な言葉のみを担保にして斬り捨てられるお上の絶対視(国から付託された専門家らや政府が間違ったことを言う筈がないという妄信状態)はもはや正常と呼ぶにはあまりに危うい。

つまり、騒がずわめかず淡々と平常を取り戻したように誰の目にも映る無関心層は既に狂っている。政府や東電の経営陣の皆さんは危機管理や事故対策や核燃料の処理も考えず米国の言うままに原発を作ったことを論うまでもなく一番先に狂っていた。そこは鉄板である。しかしである。無関心層の皆さんや政府のお歴々、東電役員の皆さんは先んじて狂ってしまったことをお嘆きになるのは無用だ。なんなれば我々は皆等しく狂いの地平へ向かってひた走っているのだからご安心召されたい。

彼らから取り残された我々も『怖い危ない不安だ』とやってるうちはまだしも正常だろうが、次第にそれが嵩じて核シェルターを自宅に作り出したり、シェルターの中に三年分の食料を貯めこみ始めたり、打倒ニッポン政府を掲げて私設軍隊を組織し出したりするのは勿論、極めつけは東電の末端社員への嫌がらせなどを嬉々としてやり出したらすなわち狂ってる証左と思って間違いないだろう。
sand castle.jpg
そう。もう誰もが正常な判断を失いつつあるのだ。
とは言え、まだまだ踏ん張ってる人、堪えてる人、神経の太い人は大勢いるのでボクなどはその人たちに大いに期待してるわけだけど、こんな事を俯瞰して書いてる時点でボクも結構危ういかもしれない。

最後までまともでいられるのは誰か。正気を保っていられるのは誰か。
日本の未来はその人の手に委ねられているのかも知れない。なんて事を半ば真剣に考えている今日この頃である。

| 10:14 | 東北関東大震災 | comments(0) | trackbacks(0) |
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