Tデザイン社 西蔵電気筆録

沖縄県は八重山郡 石垣島に開設したデザインオフィスから発信する業務日誌改め、ドイツはミュンヘン市に居を移して発信する

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絶望のススメ
皆さんの周りを軽〜く見回せば明らかだと思うが、世の多くの人はなかなか絶望しない。

実を言えばボクにはそれが不思議でたまらなかったりする。

こんな不条理で、不均衡で、法の下の平等など単なるお題目に過ぎなくて、オトナも子供も自分より弱いものを探し出してはネチネチと虐めるのに忙しくて、国家の都合で犯罪者をでっちあげ、明日を担うはずの子供が飢え、つまり貧富の差は日毎に広がる一方で、毎日世界中で軍隊が民間人を何千人と殺し続けていて、銀行と資本による搾取と欺瞞がまかり通っているのに何故絶望のひとつもしないのか不思議で仕方がない。

絶望しないだけではなく、あいも変わらず雛壇タレントを大勢映すだけの強烈なまでに面白くないテレビ番組に興じ、腹を抱えて笑ったり膝を打ったりしているそのセンスがボクには最早信じ難いものでさえある。

ボクは何もそれらの人たちをバカだアホだ低俗だと貶めようと言うのではない。ただ単にセンスとして信じ難いというだけだ。センスとしてまだしも理解できるのは、斯様な社会状況に対して呆れ返り革命を起こそうと一斉蜂起を画策したり、逆に「もう嫌だ。生きていたくない。いっそ死刑にしてくれ」と無差別殺人をやらかすようなキレやすい連中のほうであり、何故にそのようなテロリストや犯罪者のほうが理解可能なのかと言えば彼らは一様に絶望を抱えているからだ。

誤解なきよう断っておくが(誤解されても一向構わないが)、彼らの抱えている絶望が見えるからと言って彼らの行為を擁護する意図はボクにはないし、短絡的に彼らの仲間入りを果たす予定もつもりもない。あくまで雛壇タレント番組に興じるセンスに比べれば絶望するセンスのほうが理解可能ということに過ぎない。



人は何故絶望しないのか。
たぶん、絶望しないほうが楽だからだ。

絶望してしまうと日々不安に苛まれ、生きているのがどうしようもなく辛く感じられ、人間不信になったり鬱になったりして大きな精神的ダメージを受けるからだろう。

で、絶望したくない多くの人たちがいる事がこれ幸いと国家やマスメディアは多くの人が絶望しないで済むように中途半端な希望僅かばかりの救済を与え続ける。

『世の中で起きていることは何も戦争や紛争や飢餓や原発事故ばかりじゃありませんよ〜。みんな、下を向いてばかりいったて始まらないじゃないの。ね。上を向こうよ。ほら、茶の間にある大型液晶画面のテレビをつけてごらんよ。おもしろい番組やってるよ。お笑いだって、ドラマだって、バラエティだって、スポーツ中継だってやってるしw  それに大型液晶画面テレビが普及してるのだって俺らが経済的成功をおさめているが故なんだよ〜。燃費のいい車だって持ってるんだからレジャーにも行けるしさ。レジャーや旅行から帰ってきたら太陽パネルとオール電化とシステムキッチンが完備された快適なおうちでゆっくり休むこともできるしさ。パソコンやスマフォだって随分と便利になってさ、世界中の人とつながれるんだよ。腹が減れば24時間営業してるコンビニエンスストアはそこら中にあるし。ネット通販もあるから日本中の美味い物がお取り寄せできてさ、アマゾンで欲しいものすぐに買えるしさ、ユニクロなんかで格安な衣料品もたくさんあるし。生活に困っている人ための救済措置だって色々用意されているんだよ。ね。だから、みんなで頑張って仕事して税金と年金とちゃんと納めてさ、みんなでいい国つくろうよ。ね』というわけである。

なるほどよく出来ているストーリーだし社会機構だと思う。
それに異論はない。

だが、異論はなくも疑問はある。
いくら希望や救済を与えられたところで戦争と紛争と飢餓と原発事故はやっぱり起き続けているのであり、その戦争や紛争やそれに伴う飢餓や原発事故を起こしているのは(または大きく関与しているのは)他ならぬ国家であり、国家を支持する経団連や産業界や銀行や資本であり、更にそれを支持し隷属する国民一人ひとりであり、ひらたく言えばそういうのをマッチポンプと言うのであるから彼らが用意提示する希望も救済も笑止のひとことで片付けられなくもないのである。



そこでボクがお奨めするのが絶望だ。

絶望すると、皆さんご存知のように(前述したように)日々不安に苛まれる。生きているのが無性につらくなる。自暴自棄になる。誰も信じられなくなる。そして、そこが肝要なのである。

生きているのがつらくなり誰も信じられなくなることで、体制が画策敷設運営し、大勢がなびき支持する中途半端な希望と僅かばかりの救済の正体が見えてくるのだ。マッチポンプでしかないそれらの正体が否が応でも見えてしまうわけである。

だからこその絶望のススメなのだ。中途半端な希望と僅かばかりの救済のバカバカしさが見えれば本当に求めんとするものがたち現れる。本当に求めんとするものが画策も用意も準備も運営も出来ないがゆえに彼らは安っぽい代替品を我々に与え続けている図式が見えてくる。

彼ら搾取する側が得ているものは燃費がいいわりに10年で壊れる車でもなく、見せ掛けの快適さを謳ったこれまた10年であちこちいかれてくる35年ローンの家屋どころではないし、中国でやっすい人件費で作らせた大型液晶テレビでもない。彼らは自分たちの得ているものの廉価版を我々にまるで買い与えているかつもりかも知れないが、実のところ我々は彼らから恩恵を受けているわけではなくて、我々労働者側(被搾取側)こそが彼らに贅沢で豊かな暮らしを与えてやっているに他ならない。

それはこちらの意思でそうしてるのではなく、教育制度や社会制度の在り方としてそういうふうに導かれているからであり、それは絶望しないとけっして見えてこない種類のものなのであるが、だからと言ってボクは革命家になることをお奨めしているわけでもテロリストや無差別殺人者になるよう斡旋しているのでもない。

まずは絶望から始めよう!と言ってるに過ぎないのである。まずは色々と見えてこないことには何も変わらない。何を考えるにしても何を変えるにしても始めるにしても自分の周囲の景色を見ることが先決なのだから。

以上、絶望することをボクがお奨めする理由でした。
| 10:33 | Nothing! | comments(0) | trackbacks(0) |
ふるさとは遠くに在りて思うもの。恋愛は近くありて想うもの?

東京に出て半年あまりの頃。ボクはソウル三昧レコード三昧ギャンブル三昧に明け暮れていて居候先にも碌に帰らず かなり享楽的な日々を過ごしていたのであるが、そんな折、札幌に残してきたカノジョが友だちとデキてしまったとの一報が郷里より届いた。世間一般で言うところの『カノジョの浮気』である。

上京した当初こそ「さびしい」だの「会いたい」だのと泣き言を入れに電話してきたくせに最近はさっぱり連絡してこなくなったなぁ、などとカノジョのことを思い出していた矢先の出来事だった。

ま、確かにこちらに連絡しようにも携帯電話などない時代の話であるからレコード屋か職場か競馬場か雀荘ぐらいにしか居ない奴に連絡をとる手段はほとんどないわけであるから、あちらにしてみれば一体何処で何をやってるのかわからないボクへの不満や不安が昂じるのは然るべきことであり、そんな悩み相談をしているうちに友とデキちゃったらしい。

なんだか何処かで聞いたような話じゃないか。

遠くの彼氏より近くの友人。恋愛なんて所詮近くに居てなんぼのもの。心身を別の問題として捉える事の出来ないボクとしては遠距離恋愛なんてものは端っから信じちゃいなくて、カノジョと友がデキちゃったと聞かされても怒りがこみあげるでも嘆くでも悲しむでもなくて、やっぱり必然としか思えなかったのである。

そう。遠く離れてまともに連絡も寄こさない奴を待つ道理なんか誰にもない。誰にも縛られたくないボクは誰も縛りたくない。恋人だろうと友だろうと家族だろうと誰かを縛る権利など誰にもない筈だが、ボクが育った札幌ってところはヤンキーカルチャー興隆著しい土地で、どうかするときつく束縛拘束しあう事こそが真実の愛みたいに胸の一つも張って語られたりするからボクは学生の頃よりそれが気に入らなくてしょうがなかった。

昨今で言えば、相手の携帯電話をチェックするのは当然のこと、仕方のないこと、ついやっちゃう事みたいにして半ば肯定的に捉えている人が世間には多いけれど、ボクにはそれが信じ難くナンセンスな行為としか思えない。仮に相手の浮気を知ったからどうなると言うのだろう。我が誠の愛を踏みにじったと怒鳴りつけるのか。もう二度とやるなと誓約書でも書かせるのか。浮気相手を刺しに行くのか。なんにせよ不毛である。

相棒が浮気をして、浮気をするだけにとどまらずそのまま自分から離れて行くのならばそういう縁でしかなかったと言う事だ。遠く離れて頬すら触れず、髪の毛の一本にさえ触れもしないのに、ただ相手の行動を縛り付けることでしか続かぬ関係なら要は壊れるのは時間の長短の問題でしかないってことである。そんなしょーもない関係を維持するために貴重な時間を割いて相手の行動を検査し、確認し、監視することで大して太くもない神経を摩り減らすのは正味消耗でしかなくて、それを真実の愛ゆえだと語る人たちの言葉の裏側あたりでチラチラと見え隠れしているのは本人の手にも負えないほどに肥大化した幼児性ばかりじゃないか。

自分を見て欲しくてしょうがない子供たち。共に過ごす相手が何を考えているのか何を感じているのかなんてどうでもいい子供たち。誰がどれだけ痛い目を見ようと自分が痛い目をみるのは我慢ならない子供たちの姿。

カノジョも友も、そしてボクも時の流れに身を任せているに過ぎなくて、誰かが誰かを裏切ったわけでもなければ誰かを陥れようと企んだわけでもない。ボクと恋人の縁はそういう縁だったのだし、例えカノジョと寝ようと友はやっぱり友でしかない。



ほらね、ボクは誰の心もカラダも縛らないよ。

一回だって縛ったことなんてないだろう。

だからね、ボクのこともどうか縛らないで欲しいんだ。



そのようにして一瞬だけ感慨深くなったもののカノジョのことを考えるのはそれで終いにして、浮気の一報をもらった翌日の日曜もボクは予定通りに府中競馬場へと出掛け、予定通りに勝馬投票券を購入し、ギャンブル三昧を満喫したのである。

| 04:48 | Nothing! | comments(0) | trackbacks(0) |
なぜ下書きばかりが溜まるのか。更新はなかなかしないくせに。旅について書いた文章を例証として挙げてみる
 ボクのブログの書き方には癖があって、何も構成を決めずに書き出すと、書き進めるうちに大枠とかテーマとかベクトルなんかを10mぐらい横に置いたまま話が細部へ細部へと降りて行こうとする。例えば旅について書くとこんな調子。

                             

ボクは旅に出た。
パキスタンエアラインに成田から搭乗して一路タイランドを目指した。

で、タイランドの空港についてボクは驚いた。やばい事になったと天を仰ぎかけた。なんとなれば空港内の施設表記が全てタイ語と英語だけだったからだ。これでは日本語しか操れぬ上にその日本語も少なからず怪しいボクのごとき浅学の者にとって路頭に迷えと言われているに等しい大ピンチな状況であり、ま、ありていに言えばボクは最初の飛行機を降りた途端にたいへんな苦境に見舞われたのである。

目をしかめ、眉間に縦じわを立て、くちびるなんぞを噛みつつ、これは困ったことになったとつぶやいてみても、これが若くて美しい婦女子ならともかく、三十手前の長髪のむさくるしい男をほいほい言って助けてくれる者などそう沢山いるわけはなく、然るべくしてパキスタンエアラインを共に降りた乗客数十名の中にそんな奇特な方はいなかった。つまり、何一つ解せぬ施設表記に囲まれた通路上にて、若干、足がすくみ気味となり、立ち止まって辺りをきょろきょろと見回すボクに声をかけるものなど誰一人いなかったのである。

日本語で書いてある施設表記を一生懸命ボクは探したが、そんなものは何処にもなかった。歩を進めつついくら探しても見慣れた日本語が見つかる気配すらなかった。飛行機を降りて三分と経たぬうちに驚きは困惑へと変わり、困惑はまもなく諦めへと変わろうとしていた。

既にボクはびびっていた。【やばい】と日本語の単語が頭ン中の4割ほどを占め、その占領地を更に拡大するべく【やばい】はボクの頭ン中で大暴れをやらかしていた。

繰り返すようだがボクは日本語以外の文字が読めないのだ。生まれて初めて海外の地を踏んだその瞬間に、小銃を構えた英国人とタイ人が目の前に現れて、扇子しか持たぬボクに迫ってきてる幻視すら見ようとしていた。

なにを大袈裟なと笑わば笑いたまえ。なんとなればボクが英単語でかろうじて理解できるのは中学一年生の授業で出てくるレベルのものであり、例えばそれはBEDとかHOTELとかLOVEとかSEXなんかの至極短いスペルのものばかりであり、間違ってもそのような英単語はここの施設表記の中には見つけられなかったし、仮にあったとしても長ったらしい英文の中にそれを見つけるのは困難極まりない作業であるし、それよりも何よりも小学生高学年が喜ぶような英単語をここで見つけたとしても路頭に迷うボクにとってはなんら意味を持たないのは間違いなかった。

一体全体これはどうしたことだ?
タイランドには幾多の日本の商社が軒を連ね、年間何百万人もの日本人が観光に訪れる国であり、その首都にある国際空港に日本語表記がないとは何事か。これが驚かずにいられようか。などと憤ってみたのは勿論照れ隠し。大体が高校の英語では中間試験、期末試験と連続で0点を修めたことのある無類の英語嫌いであり、ありていに言えば英語嫌いと言うよりはただ単に英語を苦手としているに過ぎないのであるけれど、降り立ったタイランドの国際空港でそんな過去のことを嘆いても省みても始まらない。

よしっ!ここは気を取り直して空港の出口を探そうではないかと歩き出してみるものの、巨大な国際空港の中の、それも飛行機を降りて税関だの入国管理だのに向かわねばならない身の上としては本当にこの方向に歩いて行ってそれら当面の目的の場所に辿り着けるのか否かまったく心もとなく、10mと行かぬうちに再びボクは不安に駆られて頭を抱え込みそうになる。『嗚呼、タイランドになんて来るんじゃなかった。否、それよりも何よりも、英語のひとつも使えぬボクのような奴が海外渡航なんかするべきではなかったのだ。無理だ。ボクはこの空港から出る事が出来ぬ。そう。そんなことはもっと早く気付くべきだったのだ。無念である…』そう。この時、ボクの身体は既に諦観と言う名の進行性の疫病に蝕まれていたのである。

諦観越しに見る景色は次第に色を失っていた。
共に降りた乗客たちが皆ボクを追い抜いていく。

そもそもが衝動の為せるわざだった。長い海外渡航に行こうとするものは、通常、英語の勉強をしたり、英語教室に通ったり、地図を買ったり、ガイドブックを何冊も買い込んだりして適に英語と接し、それを覚え、レストランで注文をしたり駅や空港の窓口で目的地を告げて切符の一枚も購入したり、風俗営業店で好みの女の子を指名したりするぐらいの英語力を身につけてそれから海外渡航に出るものと聞き及ぶが、ボクはと言えばガイドブックの一冊どころか一頁すら持たず、本屋でそれらしい本を立ち読みすらしたことがなく、だいたいが海外渡航用の国別ガイドブックなるものが存在してることさえ知らないと来ている。

まったくもってひどい体たらくだ。こんなふざけた海外渡航者がいていいものだろうか?俺は海外に出ちゃいけない人間だったのかも知れない。そうだ。そうに違いない。俺はこのまま入国管理局の窓口にも行かず、税関に近寄る事もなく、まっすぐ日本行きの飛行機に乗り換えて日本へ戻るべき人間なのだ。そうだ。それがいい。それがベストな選択というものである。

それでボクは空港の外に出る事を早々に諦め、そう思うが早いか日本行きの航空機を探そうとしたのであるが、でかい窓の向こうに待機している何十機もの機体のうちのどれが日本行きなのかもさっぱりわからず、故国に引き返す事さえ容易ならざる事と知り、今やボクは諦観すら飛び越えようとしていた。つまり、

                               

と、まぁそんな調子で飛行機を降りたところから書きだしたものの何十行書いても話が先に進まず、どんどんどんどんと話がインナーワールドへと入り込んでいき、ひとつところから動かないままとなる。これがボクの癖であり、このようにして二進も三進も(にっちもさっちも)行かなくなった文章が下書きとして山ほどボクのPCには入っている。

こうしてブログ西蔵電気筆録はなかなかアップされないのである。
ま、言い訳というか、なんと言うか…



| 09:49 | Nothing! | comments(0) | trackbacks(0) |
2012ハツユメ
 半裸のクロノグラファーたちがその長い肢体を官能的にくねらせたり伸ばしたりしながら屹立する往来にはやたらと人がひしめいているのに、細く狭い路地を一本曲がれば塵芥をひっくり返したかの如き都会の風景がそこにあって、初夢とは言え俺はまた随分とベタな設定を考案したものだなぁと自戒的に少々照れるも、やはりそれが現実感と既視感のボリュームの為せる業と俺は納得せしむるのであるが、そうこうしていうちに路地の向こう側に現れたる三名の人影が壁の如く立ちはだかるから元来が気が強いほうではない俺は手のひらが汗ばむのを覚えつつ今来た路地を戻るしかなかった。

そう。俺は監視対象なのだ。
否、監視対象なのだと言い切れる確証を得ているわけではないのだが、日頃の懸念の数々を振り返るに監視されていると推察するのが適宜であり妥当なのである。パーソナルフォンを使えば雑音が混ざり、パーソナルフォンの回線が本来行うべきではない経由を裏付けるようにしばしば勝手に切断するし、自宅の付近には見慣れぬ設備屋だの営業マンだの福祉相談員だのが昼夜を問わずうろついている。加えて、ツイッターを使えば俺のアカウントは、ツイートのひとつもしていない奇妙なアカウント群からフォローを受け、フェイスブックからはライン生産されたお面の如き顔写真と如何にも嘘くさいプロフィールをアカウントに貼った見知らぬ人たちから毎日のように友達申請が入って辟易するばかりなのである。

ま、確かに得体が知れないと言うだけで監視側の連中ではないかと疑う筋合いもないのかも知れないが、同じく信用する義理もない。俺は見えるものしか触れるものしか信用しない。だからこそ警戒をされるし監視も受けるのだろう。不穏分子として。

しかしながら不穏分子と見るのは向こうの勝手であり、こちらとしては至極真っ当なことを述べ、真っ当なことを考え、真っ当なる日常を送っているに過ぎないのであるから不穏分子のレッテルを貼られて気分良いわけがない。

では気分が良くなる為にはどうしたものであろうかと俺は考えた。
来る日も来る日も考えた。しかしながら下手の考え休むに似たりであるからいつまで考えていても仕方がない。仕方ないから俺はあまり考えずに行こうと決め、ここはひとつレッテルを貼る人たちの望む者になるのがよかろうと居直り、それで俺は確信犯であるということになったのだけれど、本当は気の弱いただの正直者に過ぎないのは言うまでもない。監視されるのも警戒されるのもお門違いも甚だしいのである。

とは言え、自由なつもりの俺もまた囚われていることに相違なくば解放を求めるのは筋っちゃー筋であるから、俺はひとまず抑圧の象徴であるところのクロノグラファーの解放を実現すべく立ち上がった!

否、立ち上がったのではなくて立ち上がろうとしているというのが今年の初夢であり、解放を実現するためのパワーも武器も暴力装置も権力も何一つ持たない俺は街角に立つクロノグラファーたちに話し掛けるという戦法に出たのだ。ありていに言えば『説得』という行為であるわけだが、現行の法律では説得どころかクロノグラファーたちに声をかけるのさえ罰金100万円以下 懲役3年以下に処せられる重大なる違法行為であるから説得を試みるなんて一介の無辜の市民に過ぎぬ俺には命がけにも等しい行為に相違なく、路地を抜け出した俺は適宜選んだクロノグラファーに近づき、辺りを見回し誰もこちらに注目していないのを数回確認しつつ何気なさを装ってクロノに話し掛けた。

クロノグラファーとは俺の初夢に出てきた時間を体現し具現する者たちであり、史上もっとも優美で官能的な時計人間の通称である。クロノグラファーこそが子供たちの憧憬の最大の対象だった。

俺は意を決して一人のクロノに話し掛けようと口を開けたその刹那だった。背後から「おいこら!貴様!」と怒声が発せられたから俺は振り返りもせずに駆け出したところで今朝目が醒めたという次第。

変な初夢だなぁ。
こんな変なの見るのは俺が変ってことなのかなぁ。
多分…そうなんだろうなぁ。



ということで皆様。本年もひとつよろしくお願い致します。

| 13:50 | Nothing! | comments(0) | trackbacks(0) |
そこに野良猫がいるようにオバケも又そこにいる

十数年前。旅の足を止めて石垣島に居つくようになった時にボクは島の人たちとの会話の中で気に留まった事がひとつあって、それはオバケに対する彼らの認知認識についての在りようでした。

例えば当時のボクなどは無神論者を自認自覚し、文部省的教育を全身に浴びて少年期青年期を過ごした甲斐あってか見事に科学的で合理的認識を是としていたぐらいだから「オバケ?はぁ…いや、別に、あの、なんちゅーか、居るとか居ないとかさえ考慮に値しないんじゃないでしょうかね。ま、オバケが居ると思いたい人は思えばいいんじゃないの?ただの一度たりとも俺の目に見えないものをやっぱ居るとは言えないわけでさ」などと主張して胸のひとつも張っていたのだけれど、周りにいる島の人たちはそんな俺の言葉なんぞはまったく耳に届かないらしく至極フツーな有態で「いやだ、怖い!」だの「ダメダメ、あそこは出るから近づいたら絶対ダメよ〜。連れて来たらマズイからよ」とか「え?それやっぱ女の幽霊だった?うわ。やっぱそうなんだ。髪の毛長いやつだったでしょ。ね」みたいにオバケについて多くの島の人が語ってくれるし、島の人たちのオバケについて認識はおそらく西暦2012年、平成24年を明日に控えた今もそう変わっていない。

つまるところ、ボクにとって無駄話のネタにさえしないものが、彼らの間では話の大前提として『オバケとは実在するものである』『そこに野良猫やカラスがいるようにオバケもまた普通にそこに居るのである』となっている事を知るに及び、ボクは決して小さくはない驚きを覚えたわけです。

ここで誤解しないで欲しいのですが、ボクは島の人たちの頭ン中が科学的でもないし合理的でもないとか、現代的教育をおろそかにしてきたゆえであると訳知り顔で指摘してやろうと言うのではありません。

島の人たちにして現在の壮年以上の方々はともかくそれ以下の年齢の人たちは、ボクと同様に文部省(現・文部科学省)的教育の洗礼を受け、合理的で科学的であるモノの子弟であり、復帰後 国家によって引かれたレールの上を走る事を受け入れてきた筈であるから、仮に全国学力テストの点数に若干の差があろうともそんなものは大同小異。国家や体制という視点から俯瞰するに誤差程度のものでしょう。

つまりは、同じ教育を受け、同じテレビ番組を見て、似たり寄ったりの食生活をし、本土生活者と様式に差のない家電や車や家や財産を欲している人たちとの間でオバケに対する認識に斯くも差異が生じるのは何故なのか。北海道や東京や大阪や他府県にいる友人知人のその件についての認識を思い返してみても大方のところではボクと認識にそう大差はないでしょう。ま、中には霊感があるとか高いとか感じるとかいう方も若干名いるものの、例えばその場に不特定の十名からの人がいて、十名全員がオバケの存在を前提にして会話をしたりはしませんが、石垣島界隈に生まれ育った人の多くはやっぱりオバケの実在はデフォルトであり前提であり初期設定値であるわけです。

では、そのオバケとはなんなのか。

合理的で科学的思考を善しとし、文部科学省的教育を甘受してきた(いや。ホントは抗ってばかりだった気がしますがw)無神論者のボクなどにはまったく感知できないものであるのに石垣島の人たちにはその存在性を疑うべくもなく、論ずる意味も評する余地もなきオバケとは一体なんであるのか。

果たして彼らには見え、ボクには見えないものとはなんであるのか。おそらくそれはオバケだけに限った話ではなく、他にも多くのものが両者の間では見え隠れしている筈です。
けだしそれらはこうも言い換えられます。

彼らには触れてボクには触れないもの。
彼らには聞こえてボクには聞こえぬもの。
彼らには笑い飛ばせるのにボクには気に病んで仕方ないもの。
彼らには悲しくて仕方がないのにボクにはなんら感じ得ないもの。
彼らはずうっと大切にしてるのにボクはとうの昔に捨て去ったしまったもの。

命題だけずらずらと並べたもののそれらの解答欄に入るべき言葉にボクは実はあまり興味がありません。たくさんの方が解答欄に答を書き込もうとこの地を訪れたり、この地に移り住んだり、また他所を土地を旅したりしているようですが、暗記一辺倒の入試批判じゃないけどボクにとって答はどうでもよくて、それよりも気になって仕方がないのはそれらの差異が何故に生じてしまったのかという事なのです。

十数年前のボクに疑問を投げ掛け、これまでぼんやりとしかわからなかったものが最近になってようやくわかってきました。そして案の定と言うかなんと言うかわかってみればさしたる事でもなく、それは認識方法の差だったのです。ありていに言えばボクと島の人たちと両者のあいだに生じた差異は尺度の差、ものさしの差であったと、つまるところそういう事になります。

既に書いたようにボクのものさしは十数年もの長きにも渡った学校教育が主たる製造工場であり、そのものさしの上っ面には合理性追求科学的ものさしと印刷されています。一方、島の人たちは同様の学校教育は受けているものの彼らが持っているものさしは実はそこで作られたのではなくて、至極密度の高い対人関係性によって生成されたものであり、多くの場合それは文部科学省的教育を受ける以前の幼少期に作られているわけで、合理的思考だの科学的見地だの小賢しき原材料の混入率は最小限に留められています。

じゃあだからと言って石垣島的ものさしが実は優れていて、ボクの持っている合理と科学がごっちゃになった硬直したようなものさしが駄目なものと結論付けたいのかというとそうではなくて、例えばタイランドの山奥に行けばまた別のものさしで生きている人たちが居て、インド洋で魚を釣って暮らしている人たちにも又違うものさしが在って、更に言えば魚を釣っている人たちの間でも使っているものさしには少しずつ変異とか差異とかがあるという事に他ならないわけです。



果たしてボクらは他の人のものさしを否定したり批判したりすることに汲々となってはいまいか。科学的で合理的なる認識が絶対だと思い込んではいまいか。死に物狂いで努力すれば、人より何倍も頑張れば、そのあとにハッピーエンドが待っていると信じて止まずにはいまいか。

所詮はそれもたった一つの認識の扉に過ぎぬのに



みなさんよいお年をお迎えください。


| 20:09 | Nothing! | comments(0) | trackbacks(0) |
詐欺師が幅を利かす世界に生まれて
堀江貴文だの堀義人だの現代の成金くんは金儲けで頭ん中がとっ散らかっていてちゃんと認識できないようだが、明るさ(照度)が増せば増すほどに陰影は濃くなっていく。で、誰かに指摘され、糾弾され、ツッコミを入れられそれを目の当たりにしても尚 彼らはこう嘯くんだ。

影から出てくればいいじゃないか。
出る術はいくらでもあるんだ。
そこから出てこないのは自分の勝手だよ。
そこまで面倒見切れないだろ、フツー。

ま、そのような言葉を聞いたボクなんかは勝手に言わしておけと思う。しかし彼らの如き厚顔の徒はこちらが陰影の濃さの話をしているのに口舌も巧みに陰影から出る術とか出ようという意思とかに話をすりかえてしまうから結局のところは堀江や堀を始めとしてSBの孫正義でも楽天の三木谷浩史でも住友化学の米倉でも、そこらにいる不動産転がして儲けてるオヤジでも誰でもいいが、斯くのごとき連中をしてボクなどは経済詐欺師としか断じられないって寸法だ。

で、もう一発注釈入れておくになんで彼らが詐欺師かって、彼らは曾孫の代まで安定的生活が保障されてるくらいの大金を日々手に入れているわけだけど、その金額に見合うだけの対価を払っていないし、更に言えば対価を払わないどころか対価も支払わないで手に入れたその金で買った愛人の股ぐらに夜な夜なうずめ、息継ぎでもするように女の股ぐらからそのにやけ顔を時々上げては「おまえらも、こうしたいだろう?な、そうだろう?じゃ、俺の言うとおりにやればいいんだよ。うひひひ」なんてTVやネットや雑誌で厚顔無恥にも嘯くのだから詐欺師以外の何者でもないって寸法だ。

で、もう一発注釈しておくにボクがここで言う『頭ン中がとっ散らかっる』というのは言い換えるにある種の躁状態にあるって事で、世間一般じゃ何か誤解していて、『鬱状態』を否定的なものとして捉え、『躁状態』を半ば肯定的に 半ば生産的に捉える向きもあるようだけれど、さにあらん 躁は立派な疾病状態に他ならない。

ま、そんなふうに言ってしまえばボクら人類は総じて躁状態だしある種の分裂状態で日常を生きているわけであるから元も子もないんだけど、ま、確信犯的にそこんところは無視してしまおう。なんなればボク如き陰影の中に立つ者がこの社会の圧倒的多数を形成しているのであり、社会の陰影の中に立つ者にはこれまで自由に発言する公の場が与えられなかっただけでなく、その存在すら容易に抹消される運命に今尚あるのだからブログやツイッターで放言するぐらいのことは如何ほどのものでもなく、誰に憂慮がいるだろうか。

躁だろうと鬱だろうと分裂してようとボクらは発言していいのだ。曾孫の代まで安定的に暮らせる大金を手に入れて明るい場所から偉そうなことを述べくさる経済人だの為政者だの、経済人や為政者の手先みたいな大学教授だのそのような詐欺師連中の行為を糾弾するに躊躇いなんぞいらない。



おそらくボクら人類なんぞ遅かれ早かれ滅亡する運命にある生物であることは疑いようもないけれど、その死期が遅いか早いか、どのような最期を迎えるか、そこまでどのような過程を経るか、そこんところに関与せずにはいられないよね。にやけた顔の三流経済人やアホの為政者どもの盾になって死ぬのだけはごめんだもの。





| 10:37 | Nothing! | comments(0) | trackbacks(0) |
自己分析の仕方
なんなのだろうか?最近さっぱり書く気がしない。ブログがさっぱり更新せぬのは見てご覧のとおりだし、一時期怒涛のごとく反原発ツイートを書き込み続けたtwitterも最近はひどくムラがあって書かないときは腹減ったとさえ書かない。

ま、書けないのは憤りに任せて書き込んだ多分その反動なのだろうと通り一遍の自己分析はしてもそこにさしたる確証などない。自分で自分のことをわかった振りをしているだけのこと。

自分で自分を分析などしても想定しても予測してもあまり当たっていた例がない。あまり当たった例がないから基本的に自分に関する事柄は予測も分析も想定もしない。

で、それは当たった例がないからやらないばかりではなく、予測したり分析したり想定したりするとそれがフレーミングとなってしまい、確証もなく勝手にでっちあげたフレームに収まるようにしか行動も思考もしなくなるのを避けるためでもある。

で、巷を見回したり見渡したりするに100人中99人ぐらいは自分へのフレーミングをこぞってしているのがボクには不思議でならないのであるが、不思議だなんてスカした事を言わずして本音を言えば、自分で自分をフレーミングする行為や動機が理解できないわけでもない。って言うか理解するもしないもフレーミングこそが我々の社会を社会たらしめている原理そのものなんだと思う。

否、もしかすると我々だけの話だけでなく猿も寅も猪も熊だって。魚や爬虫類や昆虫だって。それらいわゆる自我を持たぬ筈の下等生物でさえ実は自分の能力や才能や姿形のありようを想定したり予測したり分析する事によって自己定義をしているからこそ蝿は蝿たらしめられ、豚は豚たらしめれているのではないだろうかとボクは疑うのである。

とは言えそんなものは私見に過ぎず、蝿の考えている事や感覚や生き様を知っているわけでも共有しているわけでもないので本当に豚が豚自身のことを『ほかの誰でもない。我こそは豚である』とやっているかどうかは知らない。わからない。さっぱり見えてこない。

しかし少なくとも我ら人間はそれをやっている。
間違いなくやっている。
皆で競い合うようにこぞってやっている。
かなり肯定的に必然的に自己定義という名のフレーミングを捉えてそれを実施している。例えるまでもないだろうが、話の概略だけでは理解に至らない方も少なくないだろうからわかりやすく例証しておこう。我々がやってるフレーミングとは以下の如く。

●私、ピーマン食べれないんだ。●俺って口より先に手が出ちゃうんだよね。●これでも結構努力したんだよ。でもここが限界かな。これ以上やっても無理だってことがわかったんだ。●ほら、私って口下手だからさ、こういう仕事向いてないと思うの。●俺、野球苦手なんだ。でもサッカーは得意だよ。●私のこういう性格は母親ゆずりなのよ。●いやいやいやいや、この歳になってそれは無理でしょ。ぜんぜん無理だから。できるわけないよ。身体壊しちゃうしw

ま、いくらでも例題を挙げ続けることは出来るが、面倒なのでこれくらいにしておく。ともあれ上記した例は良いも悪いもなくすべからずフレーミングだ。事の大小は無関係にとにかく自分で自分の事を予想したり想定したり分析したりしてる。例えばピーマンを食べれないとする人。これはピーマンを食べれないと誰が規定しているかって当然本人である。ピーマンを食べられない身体だと医学の権威からお墨付きをもらったわけでもなく、ピーマンが食べられるか否かの専門的検査を受けたわけでもないだろう。ただ単に、大した意味もなく、ぼくは苦いのが苦手である。なんてやってるだけに過ぎない。

そうに過ぎないから悪いと言ってるわけではない。誰がそれを規定しているのかを説いているに過ぎない。

例えば次の例証の口より先に手が出ちゃう人も同様だろう。自分で自分のことを口より先に手が出る人間としているのは自分自身である。もっと言えば親がそもそもそう決め付けた張本人である場合が多い。幼児期の頃よりこの人の親は折に触れ息子にこう言い続けるのである。『あんたはホントにすぐに手が出るんだねぇ。口より先に手が出るよね。あんたの喧嘩っぱやいのには困ったもんだよ。アハハハ』なんて具合に母親なんぞから繰り返し繰り返し耳元でささやかれた本人は間違いなく自分で自分のことを『俺は口より先に手が出る喧嘩っぱやい男』としての自己定義を揺るぎないものとするのである。

仮にそのフレーミングが自分にとってどんなに手枷足枷となっていようと、可能性の幅を狭めていようとも一向構わず無頓着なまでに皆はせっせと自分で自分をフレーミングする。俺ってこういう人間。だからそうするしかないのだ。仕方がない事なのだとエクスキューズを付けつつ明けても暮れても頭上に構えたフレームに収まるべく悪戦苦闘する。友達と飲みに行っても、彼女や彼氏とエッチをしていても、野球の試合をしていても、ところ構わずひたすらにフレーミングをやり続ける。

それはまるでマグロが時速60キロ泳ぎ続けなければ死んでしまうかの如くある。人もまた自分で自分を規定し続けなければ死んでしまうのだろうか?もしフレーミングを中止したら我々はどうなるのだろう?フレーミングこそが個性と呼ばれるものの正体であるような気もするが、はてしてそれが本当かどうかもボクにはよくわからない。

なんなればボクもまたフレーミングを止められない一人に過ぎなくて、でも頭上にある西蔵46歳日本人北海道出身石垣島在住デザイン業なんてフレームの一端が時々見え隠れするからそれが気になって仕方がない。実はこのフレームを外したくてしょうがないのであるが、外し方がどうにもわからない。







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