Tデザイン社 西蔵電気筆録

沖縄県は八重山郡 石垣島に開設したデザインオフィスから発信する業務日誌改め、ドイツはミュンヘン市に居を移して発信する

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裸の王様。笑われるべきは実は王様ではなく、王様は裸であると笑っている家来や民衆のほうかも知れない【番外編】
果たしてボクらは幸福で満たされているのか。

ボクらは正しきことは善い事であると教えられている。ただしき数字(解)を導き出せるよう算数と数学を叩き込まれ、正しき文法と発音を使えるように英語を必修し、正しい漢字を覚えるよう義務付けられ、文学作品や美術作品を観ては作者が描こうとしたテーマを正しく理解する旨申し付けられている。更に言えば正しきことを修めた後は社会に出て政治経済を正しく理解し、それらを滞りなく実践するのが正しい大人であると言うことになっている。

果たしてボクらが身を置く世界は正しきことに満ち溢れている筈だ。
世界に生きる人々の自由と平和を護る資本主義経済が悪の社会主義共産主義を打倒し、良貨を世界の隅々まで行き渡らせ貧困は消滅し、発達し続ける科学と医療が万民の命を救い、命を護り、命をつなげ、希望と自由に満ちた未来がボクらには約束されている…筈だった。

それら正しき世界が実現されていないのは何故なのだろう。

北朝鮮とイランが悪いのだろうか。それとも悪を行うマフィアや暴力団のせいなのか。それとも第三世界と呼ばれる後進国が二酸化炭素を止め処なく排出し公害を垂れ流すからなのか?第三世界が貧困を西側世界に輸出し続けているからなのか?

そのどれもが違うとボクは考えている。
考えれば考えるほど違うとかしか断じられない。
凝視すればするほどボクらの首を絞めているのは北朝鮮の独裁者でもなく、マフィアのボスでも若頭でもなく、はたまた街を徘徊するチンピラどもでは勿論なく、ましてや貧しい世界に住む貧しい人たちでないのは確かだとわかってくる。

ボクらの首を絞め上げているのはボクら自身じゃないのか。
世界に貧困を生んでいるのは富をかきあつめ富を貯め込み、質のよい商品を安価で作るよう第三世界に住む貧しき人々に求め、求めるというよりは資本のチカラで半ば無理矢理にそれを強制し、それは和姦ではなく勿論強姦に等しく、ありとあらゆるエネルギーを独占し、24時間眠らない街を作っては賞賛とエールを送り、ひたすらに富と利便と科学技術を享受し、果てどもない欲求に突き動かされるボクら自身がボクら自身の首を締め上げている。



果たして世界は弱肉強食だ。

いくら現状を批判し、我々がそれを省みたところで西側世界が溜め込んだ富を世界中に再分配できる筈もない。彼らは、おこぼれは投げ与えても共に肩を組んだりはしない。もし仮に再分配しようとしてもやはり貧者弱者の中でも狡猾で力のあるものが多くを手にするだろう。

さりとて再分配などという可能性はあくまで仮定の域を出ない限りなく空想に近い話でしかない。ボクらが生きる資本主義世界とは、富を掻き集め 富を貯めこむのが力のあるものの証しとされ、力はなくも欲求不満をもてあます者たちが強者に群がり、そうして強者のヒエラルキー集団が形成され、強者による強者のための世界なのだ。

何が正しくて何が間違っているのかを決めるのは常に強者だ。弱者は従うよりほかない。寄らば大樹の陰だの、長いものには巻かれろだのと昔から倣わすように強者の側につけばある程度の愉悦を手に入れることは弱者にも可能だったりする。

しかし弱者が如何におもねろうとも仲間の真似をしようとも強者は常に我が保身を第一に考慮して強者にとって正しきことを行使する。

彼らは間違っても弱者のことを慮ったりはしない。

理由は簡単だ。彼らが悪人だからではなく、彼ら強者は常に強者であり続けたいからだ。弱者に心を砕いたり、持っている富を分け与えたりしたら彼らは強者である理由を失ってしまう。富があってこその強者。だから彼らは間違っても弱者の側に降りてきたり歩み寄ったりはしない。至極単純な話なのだが、そんな単純なことも判らないほどにボクらは不感症を患っている。

ボクらが不感症を患った最大の原因は現行の学校教育にある。小中高の12年間もの長き時間をかけてボクらは個人性というものを奪われ続け、クラスメイトと同じことをやるよう考えるよう求められ続ける。皆が跳び箱5段を跳ぶのだからキミも跳ばなければならないと強要される。無論跳ばなくてもいいが、体育の成績は確実に下がる。

皆と同じことを出来ないとテストの点数が悪くなり成績が下がり、親からそれで小言を言われ続け、「一体誰に似て頭が悪いのだ』だの『運動音痴』だの文句を言われ続け、そんなことでは良い大学に入れない。良い会社に入れないとなり、しいては立派で裕福なる者にはなれないという事になる。

そういう環境に長きにわたって身を置くことで誰も彼も見事なまでに不感症となる。他者と違うことを考えるだけで逸脱と思い込み、他者と違うことをやれば立派な社会人としての立ち位置を失うのだから、他者とは異なる自分を捨て去り、封印し、不感症にもなろうというものだ。


王様とは誰に邪魔されようとも、その身勝手で滅茶苦茶でデタラメで他者とはまるで異なる個人性を手放さなかったものが就く位置に相違なく、言ってしまえば王様とはそもそもが裸の者を指す言葉であり、王様なんてものは最初っから裸でしかないのだ。一方、我々民衆はがっちりと長い時間をかけて個人性を剥ぎ取られ、魂や心に皆と同じ制服を着けさせられた者たちであり、確かに裸ではない。しかし世の王様達は、そのような個人性の欠片もない画一的な制服を下々の者たちに押し着せ、皆がそれを喜び勇んで身に付けるのを見ては嘲笑っているのである。

ボクらは確かに裸にはなれないかも知れない。そもそも裸がないのかも知れない。でも、もう少し脱いでいいんじゃないか、薄着になってもいいんじゃないかとボクは思う。





| 14:02 | 立派な大人のための童話 | comments(1) | trackbacks(0) |
絶望のススメ
皆さんの周りを軽〜く見回せば明らかだと思うが、世の多くの人はなかなか絶望しない。

実を言えばボクにはそれが不思議でたまらなかったりする。

こんな不条理で、不均衡で、法の下の平等など単なるお題目に過ぎなくて、オトナも子供も自分より弱いものを探し出してはネチネチと虐めるのに忙しくて、国家の都合で犯罪者をでっちあげ、明日を担うはずの子供が飢え、つまり貧富の差は日毎に広がる一方で、毎日世界中で軍隊が民間人を何千人と殺し続けていて、銀行と資本による搾取と欺瞞がまかり通っているのに何故絶望のひとつもしないのか不思議で仕方がない。

絶望しないだけではなく、あいも変わらず雛壇タレントを大勢映すだけの強烈なまでに面白くないテレビ番組に興じ、腹を抱えて笑ったり膝を打ったりしているそのセンスがボクには最早信じ難いものでさえある。

ボクは何もそれらの人たちをバカだアホだ低俗だと貶めようと言うのではない。ただ単にセンスとして信じ難いというだけだ。センスとしてまだしも理解できるのは、斯様な社会状況に対して呆れ返り革命を起こそうと一斉蜂起を画策したり、逆に「もう嫌だ。生きていたくない。いっそ死刑にしてくれ」と無差別殺人をやらかすようなキレやすい連中のほうであり、何故にそのようなテロリストや犯罪者のほうが理解可能なのかと言えば彼らは一様に絶望を抱えているからだ。

誤解なきよう断っておくが(誤解されても一向構わないが)、彼らの抱えている絶望が見えるからと言って彼らの行為を擁護する意図はボクにはないし、短絡的に彼らの仲間入りを果たす予定もつもりもない。あくまで雛壇タレント番組に興じるセンスに比べれば絶望するセンスのほうが理解可能ということに過ぎない。



人は何故絶望しないのか。
たぶん、絶望しないほうが楽だからだ。

絶望してしまうと日々不安に苛まれ、生きているのがどうしようもなく辛く感じられ、人間不信になったり鬱になったりして大きな精神的ダメージを受けるからだろう。

で、絶望したくない多くの人たちがいる事がこれ幸いと国家やマスメディアは多くの人が絶望しないで済むように中途半端な希望僅かばかりの救済を与え続ける。

『世の中で起きていることは何も戦争や紛争や飢餓や原発事故ばかりじゃありませんよ〜。みんな、下を向いてばかりいったて始まらないじゃないの。ね。上を向こうよ。ほら、茶の間にある大型液晶画面のテレビをつけてごらんよ。おもしろい番組やってるよ。お笑いだって、ドラマだって、バラエティだって、スポーツ中継だってやってるしw  それに大型液晶画面テレビが普及してるのだって俺らが経済的成功をおさめているが故なんだよ〜。燃費のいい車だって持ってるんだからレジャーにも行けるしさ。レジャーや旅行から帰ってきたら太陽パネルとオール電化とシステムキッチンが完備された快適なおうちでゆっくり休むこともできるしさ。パソコンやスマフォだって随分と便利になってさ、世界中の人とつながれるんだよ。腹が減れば24時間営業してるコンビニエンスストアはそこら中にあるし。ネット通販もあるから日本中の美味い物がお取り寄せできてさ、アマゾンで欲しいものすぐに買えるしさ、ユニクロなんかで格安な衣料品もたくさんあるし。生活に困っている人ための救済措置だって色々用意されているんだよ。ね。だから、みんなで頑張って仕事して税金と年金とちゃんと納めてさ、みんなでいい国つくろうよ。ね』というわけである。

なるほどよく出来ているストーリーだし社会機構だと思う。
それに異論はない。

だが、異論はなくも疑問はある。
いくら希望や救済を与えられたところで戦争と紛争と飢餓と原発事故はやっぱり起き続けているのであり、その戦争や紛争やそれに伴う飢餓や原発事故を起こしているのは(または大きく関与しているのは)他ならぬ国家であり、国家を支持する経団連や産業界や銀行や資本であり、更にそれを支持し隷属する国民一人ひとりであり、ひらたく言えばそういうのをマッチポンプと言うのであるから彼らが用意提示する希望も救済も笑止のひとことで片付けられなくもないのである。



そこでボクがお奨めするのが絶望だ。

絶望すると、皆さんご存知のように(前述したように)日々不安に苛まれる。生きているのが無性につらくなる。自暴自棄になる。誰も信じられなくなる。そして、そこが肝要なのである。

生きているのがつらくなり誰も信じられなくなることで、体制が画策敷設運営し、大勢がなびき支持する中途半端な希望と僅かばかりの救済の正体が見えてくるのだ。マッチポンプでしかないそれらの正体が否が応でも見えてしまうわけである。

だからこその絶望のススメなのだ。中途半端な希望と僅かばかりの救済のバカバカしさが見えれば本当に求めんとするものがたち現れる。本当に求めんとするものが画策も用意も準備も運営も出来ないがゆえに彼らは安っぽい代替品を我々に与え続けている図式が見えてくる。

彼ら搾取する側が得ているものは燃費がいいわりに10年で壊れる車でもなく、見せ掛けの快適さを謳ったこれまた10年であちこちいかれてくる35年ローンの家屋どころではないし、中国でやっすい人件費で作らせた大型液晶テレビでもない。彼らは自分たちの得ているものの廉価版を我々にまるで買い与えているかつもりかも知れないが、実のところ我々は彼らから恩恵を受けているわけではなくて、我々労働者側(被搾取側)こそが彼らに贅沢で豊かな暮らしを与えてやっているに他ならない。

それはこちらの意思でそうしてるのではなく、教育制度や社会制度の在り方としてそういうふうに導かれているからであり、それは絶望しないとけっして見えてこない種類のものなのであるが、だからと言ってボクは革命家になることをお奨めしているわけでもテロリストや無差別殺人者になるよう斡旋しているのでもない。

まずは絶望から始めよう!と言ってるに過ぎないのである。まずは色々と見えてこないことには何も変わらない。何を考えるにしても何を変えるにしても始めるにしても自分の周囲の景色を見ることが先決なのだから。

以上、絶望することをボクがお奨めする理由でした。
| 10:33 | Nothing! | comments(0) | trackbacks(0) |
SOUL FACTORY
開業を考え始めた8年ほど前にボクはSOUL FACTORYに行き着いた。それは読んで字のごとく、魂の工場。それ以上の意味もひねりもない。

ボクはライン生産された工業製品があまり好きではなく、例えば某有名スポーツブランドの限定生産されたなんとかって名前のシューズにプレミアがついて、多くの人がこぞってヤフオクなんかで高値を付けてるのを横目で見つつ『アホか…』などとつぶやきつつ独りでしらけていた。

だって考えても見て欲しい。生産数が少ないのはあくまでライン生産量の調整に過ぎず、素材に希少価値があるわけでもなければ製造工程的に手間隙をかけるので少量しか作れないわけでもない。あくまで生産者側の意図として少量を作り、有名人や著名人に履かせたり、コメントをつけさせたりして本来在りもしないプレミア感を広告宣伝的に作り出してるに過ぎないのだ。

つまるところそんなものは似非だ。似非プレミアだ。作り手の思いや心が込められているわけでもなく、ましてや魂なんぞは入っていない。それを単に高値で売り、喜んでそれを言い値で買う人たち。ボクはそんな場所に足を踏み入れる気はないし、よほど羽振りのいいパトロンでもつかない限りその見込みもない。

仮に羽振りのいいパトロンがいたところでボクはそんな似非なものづくりをするつもりはこれっぽっちもない。今後ぶれないためにも敢えてそう宣言しておこうw

だからボクは自分や信頼のおける仲間とだけ仕事をするし、その範囲の中で仕事をする。メジャーになる野望とかこれっぽっちもないw それはまさに資本に魂を売ることだからだ。今更こんな事を正面から言うのも気恥ずかしいのだけれど、世の中は金と効率と似非の臭気に満ち溢れていてバカ正直にこれぐらいの発言をしておかないと周囲から『当然あなたのところもそうなんでしょ』ぐらいに誤解されるのが面倒臭くて仕方がないw

金と効率と似非から対極にあるSOUL FACTORY。
ま、こんなこと言ってるから儲からないんだろうなww

| 12:51 | soul | comments(0) | trackbacks(0) |
ふるさとは遠くに在りて思うもの。恋愛は近くありて想うもの?

東京に出て半年あまりの頃。ボクはソウル三昧レコード三昧ギャンブル三昧に明け暮れていて居候先にも碌に帰らず かなり享楽的な日々を過ごしていたのであるが、そんな折、札幌に残してきたカノジョが友だちとデキてしまったとの一報が郷里より届いた。世間一般で言うところの『カノジョの浮気』である。

上京した当初こそ「さびしい」だの「会いたい」だのと泣き言を入れに電話してきたくせに最近はさっぱり連絡してこなくなったなぁ、などとカノジョのことを思い出していた矢先の出来事だった。

ま、確かにこちらに連絡しようにも携帯電話などない時代の話であるからレコード屋か職場か競馬場か雀荘ぐらいにしか居ない奴に連絡をとる手段はほとんどないわけであるから、あちらにしてみれば一体何処で何をやってるのかわからないボクへの不満や不安が昂じるのは然るべきことであり、そんな悩み相談をしているうちに友とデキちゃったらしい。

なんだか何処かで聞いたような話じゃないか。

遠くの彼氏より近くの友人。恋愛なんて所詮近くに居てなんぼのもの。心身を別の問題として捉える事の出来ないボクとしては遠距離恋愛なんてものは端っから信じちゃいなくて、カノジョと友がデキちゃったと聞かされても怒りがこみあげるでも嘆くでも悲しむでもなくて、やっぱり必然としか思えなかったのである。

そう。遠く離れてまともに連絡も寄こさない奴を待つ道理なんか誰にもない。誰にも縛られたくないボクは誰も縛りたくない。恋人だろうと友だろうと家族だろうと誰かを縛る権利など誰にもない筈だが、ボクが育った札幌ってところはヤンキーカルチャー興隆著しい土地で、どうかするときつく束縛拘束しあう事こそが真実の愛みたいに胸の一つも張って語られたりするからボクは学生の頃よりそれが気に入らなくてしょうがなかった。

昨今で言えば、相手の携帯電話をチェックするのは当然のこと、仕方のないこと、ついやっちゃう事みたいにして半ば肯定的に捉えている人が世間には多いけれど、ボクにはそれが信じ難くナンセンスな行為としか思えない。仮に相手の浮気を知ったからどうなると言うのだろう。我が誠の愛を踏みにじったと怒鳴りつけるのか。もう二度とやるなと誓約書でも書かせるのか。浮気相手を刺しに行くのか。なんにせよ不毛である。

相棒が浮気をして、浮気をするだけにとどまらずそのまま自分から離れて行くのならばそういう縁でしかなかったと言う事だ。遠く離れて頬すら触れず、髪の毛の一本にさえ触れもしないのに、ただ相手の行動を縛り付けることでしか続かぬ関係なら要は壊れるのは時間の長短の問題でしかないってことである。そんなしょーもない関係を維持するために貴重な時間を割いて相手の行動を検査し、確認し、監視することで大して太くもない神経を摩り減らすのは正味消耗でしかなくて、それを真実の愛ゆえだと語る人たちの言葉の裏側あたりでチラチラと見え隠れしているのは本人の手にも負えないほどに肥大化した幼児性ばかりじゃないか。

自分を見て欲しくてしょうがない子供たち。共に過ごす相手が何を考えているのか何を感じているのかなんてどうでもいい子供たち。誰がどれだけ痛い目を見ようと自分が痛い目をみるのは我慢ならない子供たちの姿。

カノジョも友も、そしてボクも時の流れに身を任せているに過ぎなくて、誰かが誰かを裏切ったわけでもなければ誰かを陥れようと企んだわけでもない。ボクと恋人の縁はそういう縁だったのだし、例えカノジョと寝ようと友はやっぱり友でしかない。



ほらね、ボクは誰の心もカラダも縛らないよ。

一回だって縛ったことなんてないだろう。

だからね、ボクのこともどうか縛らないで欲しいんだ。



そのようにして一瞬だけ感慨深くなったもののカノジョのことを考えるのはそれで終いにして、浮気の一報をもらった翌日の日曜もボクは予定通りに府中競馬場へと出掛け、予定通りに勝馬投票券を購入し、ギャンブル三昧を満喫したのである。

| 04:48 | Nothing! | comments(0) | trackbacks(0) |
何が真実かわからないとお嘆きの方へ


「一体なにが真実なのかわからない!」
「誰の言葉を信じたらいいのだろうか?」
 
これらはネットでもリアルでもしばしば目にするし耳にする文言だし、確かに巷には情報だの意見だの諸説だの偉そうな評論だのありとあらゆる言説が溢れ返っていて、それらは一様に『我こそは真実なり』『これをおいて他に最善手なし』なんて具合にもっともらしい仮面をつけているので、ま、よくわからないっちゃー確かによくわからないかも知れません。

しかしながらこんなぐちゃぐちゃの事態は何も今に始まったことでもなければ原発事故を機に巻き起こった混乱でもありません。

侃侃諤諤(けんけんがくがく)だの
議論百出(ぎろんひゃくしゅつ)だの
甲論乙駁(こうろんおつばく)だの
しっちゃかめっちゃかで、ぐちゃぐちゃになった様子を表す言葉が昔からあるように原発是非を問う今般の騒ぎだって言ってみれば我々が通らざるを得ない不可欠の事態なわけです。

そう。「皆でよってたかって好き勝手いいやがって。何が真実か一向わからぬではないか!この大タワケどもめ!!」と多くの方が嘆いたり騒いだり憤ったりしてるのが原発問題の現在です。とは言え、世の重大事は原発事故だけではありませぬ故に皆それぞれの重大事について、例えばいじめの問題だったり超少子化と超高齢化の問題だったり、それらについてもまた考え込んだり悩んだり叫んだりしてるのは想像に難くないわけだし、月の小遣いが減っただのスマフォはどの機種がいいだのとひどく瑣末な事に悩んだり身悶えたり七転八倒している方も中にはいるやも知れませんが、今現在騒いだり嘆いたり怒ったり呆れたりしている人たちのうちの概ね半分以上の人は原発をこのまま推進すべきなのか、それとも全廃であれ段階的であれ何であれなるべく早期に廃炉へとシフトすべきなのか、そこんところでぐだぐだとやってるし、ぐだぐだとやってる人のうちの一人がボクだったりするのです。

しかしながらボクは悩みません。
何が真実なのかわからぬぞ、右から左から上から下から好きなこと言いやがって、みんな真実に思えちゃったり全部ウソに思えたりするんだけど、俺は一体どうすりゃいいのよ!とこのパターンで悩んだことがありません。

だからと言って、何が真実であるのか、何を信じたらよいのだろうか、みたいな事をまったく考えないわけでもありません。ありませんが基本的にそこでは悩みません。

じゃ、何故にそこで悩まないのかと言えば、それら判断の基準の置き方を他者の言説に委ねないからです。逆に言えば如何に判断すべきかを他者に任せるがゆえに悩まざるを得なくなる。周りを見渡すに議論百出だろうと甲論乙駁だろうと喧々諤々だろうと自らの内側に判断の基準があれば周囲の喧騒はほとんど気にならなくなります。



繰り返しましょう。何が真実かわからないとお嘆きの方は自らの内側に基準を持っていないのです。基準という言葉がそぐわなければ感覚と言い換えても構いません。上記したところに倣えば『A論とB論、どっちも正しく思える。正しいのはどっちだろう。ん〜、どっちも正しく思われる…どっちなのだろう?』とやるのは判断基準や感覚に欠ける方であり、それを持ってる者は『AとB、どっちも正しげであるよなぁ。そりゃそうだよね。我こそが正しいとやるための体裁や格好を整えているんだからそう見えなきゃむしろ変だ。つまり体裁や格好を整え、我こそが真実、我こそは正義、我こそ大義!と声高にやるものに真実などはないのだろう。ま、真実なんてものは最初からないのかも知れないけれど』と考え、考えるだけでなく己の身体感覚や研ぎ澄ました五感に依拠した結論を導き出します。

つまるところテレビや新聞はAかBかどちらかに導くための記事を用意し、大義という仮面を付けたテキストを常に提示し我々を誘導を図るわけで、テレビや新聞などの大衆メディアをソースとしている限りは未来永劫にわたりAB大義抗争から抜け出ることが出来ないでしょう。

終わりに一つだけ具体例を挙げますが、昨年巷でよく論争ネタになっていた放射能【放射線)が身体に良いか悪いかというテーマ。これを議論していた皆さんは専門家や学者や大学教授や政治家の言質を得ることで判断の論拠としていたようですが、ボクに言わせるとその判断方法はまったくもって奇異なことです。なのでボクは偉い先生の言質はひとまず横に置き、それを判断するに当たってボクはボクの五感を通して得られる至極日常的な情報をもとにしてそれを考えました。病院に行ってレントゲンを撮る際、私たちは関係者以外対入り禁止マークがついた重い鉄の扉を開け、鉛入りのベストを着せられます。妊産婦はレントゲンを厳重に制限されます。

それ以上に判断材料が何か必要でしょうか?
ボクには必要ありません。ボクはボクが見たもので十分です。大学のセンセーのアカデミックな論説も政治家のお墨付きも要りません。屁のツッパリにもならないどころか、もしボクがそれに耳を傾けたなら従ったにせよ抗ったにせよ、それは誰かの思惑のままなわけで。






| 12:33 | - | comments(1) | trackbacks(0) |
世間様もテレビネタでもよく言うよね。プロとは何か?なんてことを
どんな仕事でもいいんだけど、巧くいく時とそうじゃない時があると思う。その差はどこから生じるのだろう。

ボクの本業はさておき、例えば飲食店。調理の仕事だとしよう。最初にひとつ注釈をつけておくと、調理の仕事とは言っても、状態も鮮度も加工の具合もほぼ一定で変わらない冷凍食品か何かをレシピ通りに温めたり盛り付けたり、厨房やキッチンから出ることなく客の顔も見ずにただ定められた時間をタイマーで計りつつ加熱処理するだけの人は本稿で言う調理の仕事には該当しないのであしからず。

至極あたりまえのことなんだけど、素の状態においてあらゆる食材は日々コンディションも違えば味も違う。甘味が多かったり少なかったり、香りが立っていたりいなかったり、繊維が硬かったり柔らかかったりする。まずもってその差異を感知できない人は調理人ではない。世間一般でしばしば誤解されているようだが、その差異を感知できるか否かは調理人としての才能でも技術でも感覚の鋭さでもなく、ちゃんと食材と向き合っているか否かの姿勢の差でしかない。調理用に買い入れたものをいちいち齧ってみたり潰してみたり嗅いでみたり食べてみたりしていれば普通にわかるのが当然であり、別段むずかしいことではない。

そういうわけで調理を仕事とする人は美味いものを首尾よく作ろうとするならば一義的には食材をよくよく把握していなければならないでしょう。ま、でも、だからと言って世界中のありとあらゆる食材に精通している必要はなくて、目の前に置かれたお馴染みの食材の味や香りや特徴をちゃんと理解していればこと足ります。で、理解したその甲斐あって首尾よく自慢の逸品が出来上がったとします。ああ、よかったよかった。俺の仕事はうまくいったぜ!と一息入れちゃってよいかと言うと未だ全然そんなことはなくて、なんとなれば調理人としての仕事がうまく行ったか否かは、それを注文した客が食べ終わらないことには断ずるわけにはいきません。

独りよがりでいいのなら全ての仕事に失敗なんかあるわけがなくて、調理で言うのならば、シェフが出した(作った)自慢の一皿を食した客がもし不満顔で席を立つようならその仕事は失敗ということにならざるを得ません。「あららら残念でした〜、お客さん一人失いました〜、否、待ってよ、一人で済むならいいけど、ま、おそらくその客の交友関係まで考慮するなら10人は失っちゃうことになるのかよ〜。いや〜もっとかなぁ〜。糞〜」

じゃ、失敗したらプロじゃないのかと言うとそんなわけはなくて、プロだろうとアマだろうと達人だろうとマスターだろうと別に機械じゃないんだからヒューマンエラーは付きものです。

勘のいい人はこのあたりで気がつきます。『ああそうか。プロとアマの差はエラーにどう対応するかの差なんだな!わかったぞ。アマは知識も少なくスキルも低いのでエラーに対処できなくて、プロはそうじゃなく、スキルも高く情報も色々と持ってるので〜』

みたいな紋きり調は今時成立しません。アマのスキルが低いなんてとんでもないことです。プロよりスキルが高いアマチュアなんかどこの業界や分野にだって極当たり前にいます。HIGHスペックのアマチュアなんか世の中にごろごろいます。機材だって知識だってアマのほうが良いものを持っていたりするのも珍しいことではありません。なんとなればプロは日常の仕事に追われて新しきプロダクツに目を向けている時間もままならなかったしますが、アマは仕事を定時勤務で終えたのちに趣味の時間にどっぷりと漬かることが許されている場合もあるのはご存知のとおり。

つまり、ここらで要約をするならば、
『エラーも時々やらかして、さほどのハイスペックでもなく、仕事に追われていて向学心も勉強する時間もあまりないのがプロフェッショナル』となります。なんだよ、それ?アマチュアとの差は、じゃ一体なんなんだよ!?プロもアマも大差ないって事かよ?

ま、そんなご質問には「その通りでございます。あなたは慧眼を持ってらっしゃる」とお答えするしかありません。だって周りをみてごらんなさい。誰でも彼でも簡単に独立したり起業したりするわりに、じゃ、彼らがしっかり研鑽を積んでからの起業だったり独立だったりするのかと言うと、たま〜にそういう人もいるけど、大半は腰掛けバイトぐらいで精勤したこともなく、勉強したと言ってもその多くはネットをぐぐって調べたもので、自らの手足を汚して得たわけじゃないからどうしても薄っペらだったり偏ったものだったりするのですよ。

じゃ、なに?
プロって阿呆なの?アマチュアのほうがまだましってこと?

という声が聞こえてきそうですが、ただ質問だけを繰り返して自分は何もしないって人よりは、どんな安直で安易なプロフェッショナルでもまだましでしょうね。って、つまり、アマチュアはどんなにハイスペックであろうとハイスキルであろうと所詮は腹をくくる覚悟がない人たちの総称もしく別称であり、プロフェッショナルとは(喩えその自立性がいかに安易で安直でも)顧客と差しで勝負する覚悟を持った人たちのことを言うのです。ちゃんと腹をくくった人をプロフェッショナルと呼ぶわけです。

これまで我々の社会は、ちゃんと腹をくくっている人に対するリスペクトに著しく掛けていたせいなのか、それとも公務員親方日の丸が理想の仕事みたいに思い込んでる人たちが大勢を占めているせいなのかよくわかりませんが、アマチュア志向が大きなトレンドとして厳然とありましたが、ボクはこれをくつがえしたい。

でもただ覆したいと言っていても覆らないので老若男女を問わずして起業開業のススメを吹聴して回っている。安直に起業すればいいのである。みんなどんどん安易な知識と技で開業しちゃえばいいのである。みんなでやれば怖くない。みんなでやればそれが基準線になっていく。みんなで奴隷みたいな労働したり、みんなで被爆に見て見ぬ振りしてるよりは、みんなで起業開業するほうがよほど健全だとボクは考える。

さ、みんなでプロフェッショナルになろう。

ま、最初はろくでもないプロでも、やる気とその気があればどんどん良い感じになっていくからさw




| 12:12 | about us | comments(0) | trackbacks(2) |
りっちゃんからみっちゃんへ
最近いよいよ睡眠時間が短くなっている。
眠らなくなっている理由は幾つかあって、ひとつには梅雨のせいだ。沖縄はもう既に何週間も前から梅雨なんだが、多雨のおかげで移動手段がバイクのボクの行動時機が大きくずれるわけで、つい先日は仕事場までの道半ばで豪雨となり3時間以上も雨宿りする羽目になったし、そうして仕事が後ろにずれこむから深夜まで仕事をするから眠らなくなる。

そう。これを書き出したのも事務所を出ようとしたタイミングで強い雨が降り出したからだ。ま、気象庁サイトの降雨スキャナーによればあと10分もしたら止みそうであるから、あと10分だけブログを書く事にしよう。

眠らない二番目の理由は、ただ単純に業務多忙によるものだ。しかしながら多忙とは言っても別に例年以上の注文が舞い込んでいるというわけではなくて、三年の間、デザイン制作にスクリーン印刷にとフル回転で頑張ってくれたスタッフのリッちゃんが退職したので、これまで二人で回していた仕事量を単独でこなさねばならなくなり、そうでなくてともキャパの小さいボクなどはすぐに一杯一杯となるのである。

そして、そのように時間ズレズレで多忙なところに加えてTデザイン社には退職したリッちゃんと交代するかのようなタイミングで新たな男性スタッフが加入し、その彼がなかなかの敏腕だったりして、事務所の改装は企画するわ、物販の新たな展開を企画するわ、マネージャーよろしくスケジュール管理はしてくれるわ、デザイン制作こそ未だ出来ないもののアイディア豊富な彼の提案に鼓舞されるようにボクの脳みそも活性化したぐらいにして深夜回ってから突然新しいイラストワークをやり出すから又眠れなくなる。

新しいスタッフは通称みっちゃん。眉目麗しき好男子である。顧客の皆さまにおかれましてはお見知りおきのほどよろしくお願い致します。

事程左様にして会社とは生き物なのであるけれど、どうやら今うちの会社は活動期に入ったらしく、できの悪いボクなどは眠る時間がさっぱり取れないのである。しかし、ま、四十も後半になってから三時間睡眠の生活に戻るとは思わなかったよ。ホント。長生きは出来そうにもないねw 

と言うことで雨も上がったようなので今夜はこれまで




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